M&Aで会社を譲り渡した後、最も深刻な問題として現れるのが、従業員の離職です。とくに中小企業では、特定の人が特定の顧客や技術を担っていることが多く、数名の退職が売上の相当部分を失わせることもあります。買い手が支払った対価は、多くの場合、これから生み出される利益に対するものです。その利益を生む人がいなくなれば、取引そのものの前提が崩れます。本稿では、M&A後の定着について、離職が起きる構造から具体的な実務までを整理します。

なぜM&A後に人が辞めるのか

離職の理由は、大きく四つに整理できます。

第一に、不安です。「会社が売られた」という事実は、従業員にとって突然の出来事です。給与は下がるのか、リストラがあるのか、勤務地は変わるのか、慣れたやり方は否定されるのか。情報がないまま憶測が広がると、不安は増幅します。そして、不安な人ほど早く動きます。

第二に、不信です。「社長は自分たちに黙って会社を売った」と受け止められると、それまでの信頼関係が損なわれます。とくに、長年会社を支えてきた古参の社員ほど、この感情は強くなりがちです。売却の事実そのものより、伝えられ方に納得できないことが、離職の引き金になります。

第三に、実際の変化です。買い手のルールが持ち込まれ、報告書類が増え、これまで裁量で決めていたことに承認が必要になる。給与や賞与の仕組みが変わる。役職や役割が変わる。こうした変化そのものが負担になり、「前のほうがよかった」という感情を生みます。

第四に、連鎖です。誰か一人が辞めると、残った人の不安が増します。とくに、影響力のある人が辞めた場合、その人を慕っていた社員が続くことがあります。離職は個別の事象ではなく、連鎖する現象だという理解が必要です。

この四つのうち、第一と第二は伝え方の設計で大きく減らせます。第三は変化の順序と速度の問題です。第四を防ぐには、初期対応の速さが鍵になります。

発表の設計が、その後の定着を左右する

従業員への開示は、通常、クロージングの前後に行われます。この一回の説明が、その後数か月の空気を決めます。

実務上、押さえておきたい点は次のとおりです。

  • 売り手の経営者が自分の言葉で伝える。買い手からの説明が先に立つと、従業員は「置いていかれた」と感じます。まず売り手の経営者が、なぜこの決断をしたのかを語ることが出発点です。
  • 理由を正直に伝える。後継者がいないこと、会社を存続させたかったこと、従業員の雇用を守りたかったこと。取り繕った説明は見抜かれます。
  • 変わらないことを最初に伝える。雇用は継続すること、給与や労働条件を直ちに変更する予定はないこと、勤務地は変わらないこと。人が知りたいのは、まず「自分はどうなるのか」です。
  • 買い手が直接語る場を作る。買い手の経営者が自分の言葉で、なぜこの会社を引き継ぎたいと考えたのかを話すことは、大きな効果があります。
  • 質問を受ける場を用意する。その場で全員が質問できるとは限りません。後日、個別に話す機会を設けることを伝えておきます。
  • 順序を設計する。キーマンや管理職には事前に、あるいは直後に個別に伝え、他の従業員への説明に協力してもらう形が有効です。

開示の時期と方法については「会社売却を従業員にいつ・どう伝えるか」で詳しく解説しています。発表の場は一度きりですから、仲介会社を交えて、事前に内容と順序を詰めておくべきです。

最初の100日で行うこと・急がないこと

統合の初期は、やるべきことと急ぐべきでないことを分けることが重要です。

早めに行うこと急がないこと
全員との個別面談(短時間でも可)人事評価制度の統合
雇用条件が変わらないことの書面での確認給与体系の全面的な見直し
現場が困っている小さな問題の解決組織の大幅な再編
意思決定のルールの明確化(誰に何を確認するか)基幹システムの統合
買い手側の担当者を現場に常駐・往訪させる取引先の集約・見直し

とくに効果が大きいのが、個別面談と「小さな問題の解決」です。長年放置されていた設備の不具合、人手が足りない工程、非効率な事務——現場には必ず、以前から改善したかったことがあります。それが統合後すぐに一つでも解決すると、「新しい体制になって良くなった」という実感が生まれます。逆に、初期に大きな制度変更を持ち込むと、負担だけが先に来て不満が蓄積します。

また、意思決定のルールを早く明確にすることも重要です。「これまでは社長に聞けば決まったことを、今は誰に聞けばよいのか」が分からないと、現場は止まります。この混乱は、想像以上に強い不満を生みます。統合初期の進め方は「PMIの100日プラン」で整理しています。

キーマンへの向き合い方

会社には、必ず「この人が抜けたら困る」という方がいます。営業を一手に担っている方、技術の中核にいる方、現場をまとめている方。この方々への対応は、定着施策の中心です。

実務では、次のような対応が採られます。

  • クロージング前後の早い段階で、買い手の経営者が直接会って話す
  • 今後の役割と期待を具体的に伝える(「これまでどおり」ではなく、「あなたにこの役割を担ってほしい」と伝える)
  • 処遇について、必要に応じて見直しを行う
  • 本人の希望や不安を聞く場を、継続的に設ける

ここで注意したいのは、待遇の引き上げだけでは定着しないということです。人が残る理由は、金銭よりも「役割があること」「認められていること」「働く環境が納得できること」にあることが多いためです。むしろ、特定の人だけ処遇を大きく変えると、他の従業員との間に軋轢が生じることもあります。

なお、譲渡契約において、キーマンの継続勤務を条件とする定めが置かれることがあります。ただし、雇用は本人の意思によるものであり、契約で縛れるものではありません。だからこそ、契約の条項ではなく、実際の関わり方によって残っていただく努力が必要になります。買い手側の視点は「買収した会社の人材流出を防ぐ」でも解説しています。

売り手の経営者にしかできないこと

M&A後の定着というと、買い手の課題と思われがちですが、売り手の経営者にしかできないことがあります。

第一に、引き継ぎの期間を確保することです。譲渡と同時に完全に退くのではなく、一定期間は会社に残り、取引先への紹介や業務の引き継ぎを行う。これは事業のためでもありますが、従業員にとっては「社長がまだいる」という安心感になります。急に姿を消すことは、残された人にとって最も不安な事態です。

第二に、買い手を信頼していると示すことです。従業員は、社長が新しい経営者をどう見ているかを敏感に感じ取ります。売り手の経営者が買い手を信頼し、協力する姿勢を見せることが、そのまま従業員の安心につながります。

第三に、相手選びの段階から従業員のことを考えることです。定着の努力は、譲渡後に始まるのではありません。どの相手に譲るかを決める段階から始まっています。事業に対する考え方、従業員への姿勢、統合の進め方——これらを面談の場で確認し、納得できる相手を選ぶこと。価格だけで相手を決めた場合、その後の統合で苦労することは少なくありません。

第四に、退く時期を明確にすることです。引き継ぎのために残ることは有効ですが、いつまでも二人の経営者がいる状態は、現場を混乱させます。「いつまで、どういう立場で関わるのか」を最初に決め、従業員にも伝えておくことが大切です。

まとめ|定着は、買い手と売り手が一緒に作るもの

M&A後の離職は、起きてから対応するのでは遅く、起きないように設計するものです。そして、その設計は交渉の段階から始まっています。誰に譲るか、いつ何を伝えるか、引き継ぎにどれだけ時間をかけるか。これらの判断の積み重ねが、統合後の空気を作ります。

従業員の雇用と働く環境を守りたい——事業承継をお考えの経営者様の多くが、そう仰います。その思いを実現するには、相手選びと伝え方、そして引き継ぎの設計に、時間をかける必要があります。逆にいえば、時間をかければ、実現できる可能性は十分にあります。

当社プラチナパートナーズは、中小企業の事業承継・会社売却をご支援しています。相談料・着手金・月額報酬は0円です。従業員への説明や引き継ぎの設計を含め、譲渡後を見据えた進め方をご一緒に考えます。

よくあるご質問

A.取り繕わずに事情を話すのが最も伝わります。交渉中は秘密保持の義務があり、途中で情報が漏れれば取引先や金融機関に動揺が広がって、かえって皆さんの職場を危うくしかねなかったこと。そして、後継者がいないこと、会社と雇用を残したかったことという決断の理由を、ご自身の言葉で語ってください。離職の引き金になるのは、売却という事実そのものより、伝えられ方に納得できないことです。その場で答えきれない質問は、後日個別に話す機会を設けると伝えておきます。
A.待遇の引き上げだけでは定着しません。人が残る理由は、金銭よりも役割があること、認められていること、働く環境に納得できることにあることが多いためです。むしろ特定の方だけ処遇を大きく変えると、他の従業員との間に軋轢が生じることもあります。有効なのは、買い手の経営者が早い段階で直接会い、「これまでどおり」ではなく「あなたにこの役割を担ってほしい」と具体的に伝えること、そして本人の希望や不安を聞く場を継続的に設けることです。
A.譲渡契約にキーマンの継続勤務を条件とする定めが置かれることはありますが、雇用はご本人の意思によるものであり、契約で縛れるものではありません。条項は買い手の安心材料にはなっても、残っていただく力そのものにはなりません。だからこそ、契約の文面ではなく実際の関わり方——役割と期待を具体的に伝えること、不安を聞く場を設けること——で向き合う必要があります。売り手としては、引き継ぎ期間に残って社内の空気を支えることが、最も効く後押しになります。
A.決めて、従業員にも伝えておくべきです。前の経営者が急に姿を消すことは残る人にとって最も不安な事態ですが、逆にいつまでも経営者が二人いる状態は、誰に何を確認すればよいのかが分からなくなり、現場を混乱させます。「いつまで、どういう立場で関わるのか」を買い手と合意して書面にし、社内にも共有してください。統合の初期は、意思決定のルールが曖昧であること自体が、想像以上に強い不満を生みます。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら