PMIに関する情報の多くは、買い手の視点で書かれています。統合計画、体制、進捗管理——いずれも譲り受ける側の実務です。しかし実際には、統合が順調に進むかどうかは、譲り渡した側の関わり方に大きく左右されます。取引先との関係も、従業員の受け止め方も、長年その会社を担ってきた人たちの手の内にあるからです。本稿では、譲渡した経営者と、会社に残る幹部の立場から、統合の期間に何をすべきかを整理します。関与期間の設計は「前経営者の退任時期の見極め」もご参照ください。
譲渡が決まってから、最初にすること
譲渡が決まった経営者がまず取り組むべきなのは、自分にしかできない仕事の洗い出しです。毎日こなしているために意識していないことが、実は他の誰にも引き継がれていない、という状況は非常に多く見られます。
書き出す観点は次のとおりです。誰から電話がかかってきて、どんな判断を下しているか。見積りや工程の最終決定は誰がしているか。金融機関との折衝で、誰が何を話しているか。人事の判断——採用、配置、評価——は誰が決めているか。トラブルが起きたとき、最後に出ていくのは誰か。
この一覧ができると、引き継ぎの計画がそのまま組めます。項目ごとに、誰に引き継ぐか、どう引き継ぐか(同行、文書化、立ち会い)、いつまでに終えるかを埋めていきます。買い手から求められる前に、自分で作っておくことをお勧めしています。交渉の場でも、引き継ぎの見通しを具体的に示せることは信頼につながります。
なお、この作業は譲渡を決める前の準備段階から始められます。属人化の解消は、企業価値の観点からも意味があります。
従業員に何をどう伝えるか
譲渡の事実を従業員に伝える場面は、譲渡した経営者にとって最も重い場面のひとつです。ここで伝えるべきことは、実は多くありません。
- なぜ譲渡を決めたのか——事業の継続や成長のため、という趣旨を自分の言葉で
- なぜこの相手を選んだのか——事業への理解、雇用の考え方など、選定の理由
- これまでへの感謝と、これからへの期待
とりわけ二つ目が重要です。従業員が最初に抱く疑問は「なぜこの会社なのか」であり、ここに納得がないと、その後のあらゆる施策が疑いの目で見られます。譲渡先を検討する段階から、従業員に説明できる理由になっているかという観点を持っておくと、この場面で言葉に詰まりません。
避けたいのは、経営が苦しかったことを強調しすぎることです。事実であっても、従業員には「自分たちの努力が足りなかった」と受け取られかねません。また、「新しい社長の言うことを聞いてください」と突き放す形の締めくくりも、心情的な断絶を生みます。当面は自分も関わり続ける意思を、可能な範囲で伝えてください。説明会の設計は「買収初日の段取り」で扱っています。
取引先への引き継ぎは、自分の口から
取引先との関係は、譲渡した経営者にしか引き継げない資産です。書面の通知だけで済ませると、取引先は「知らないうちに相手が変わった」と感じ、条件の見直しや取引の縮小を検討しはじめることがあります。
実務で効果があるのは、新しい担当者を連れての同行訪問です。訪問の場では、譲渡の経緯、新しい体制、今後の窓口を伝えます。そのうえで、「今後もこれまでと同じように」と前経営者自身の口から述べていただくことに意味があります。
訪問の優先順位は、取引金額の大きさだけで決めないでください。金額は小さくても、長年の付き合いがある、技術的に代替が難しい、紹介の起点になっているといった取引先があります。関係性の重さで優先順位を付けるのは、譲渡した経営者にしかできない判断です。
あわせて、それぞれの取引先について「何を大事にしている相手か」を新担当者に伝えてください。納期に厳しい、価格より品質を重視する、担当者が代わることを嫌う——こうした情報は資料には残っていません。取引先対応の全体像は「M&A後の取引先対応」をご参照ください。
会社に残る幹部の役割
譲渡後も会社に残る幹部の方々は、統合において非常に重要な位置にいます。買い手にとっては現場を知る唯一の情報源であり、従業員にとっては最も身近な相談相手だからです。
この立場で意識していただきたいのは、現場の事情を説明する役割です。買い手が持ち込む手順が現場に合わない場合、黙って従うのでも、単に反発するのでもなく、「この手順だとこういう支障が出る。理由はこうだ」と具体的に説明することが、最も建設的な関わり方になります。
買い手側も、多くの場合その説明を求めています。統合の計画は外から見た情報で作られており、現場の実態と食い違う部分があるのは当然だからです。説明が上がってこないと、買い手は「特に問題はない」と判断して進めてしまいます。
一方で、従業員に対しては、不確かな情報を伝えないことが大切です。「たぶん給与は下がる」「そのうち人が減らされる」といった憶測は、たとえ善意の警告であっても、組織を大きく動揺させます。分からないことは分からないと伝え、確認すると述べるほうが、結果として信頼されます。
統合の期間に、売り手側が直面しやすい葛藤
統合が進むにつれ、譲渡した経営者や残った幹部が、割り切れない思いを抱く場面が出てきます。よくあるのは次のような状況です。
- 長年続けてきたやり方が、合理性を理由に変更される
- 自分が育てた人材の評価が、新しい基準では低くなる
- 意思決定の場に呼ばれなくなる
- かつての部下が、自分ではなく新経営陣に相談するようになる
これらは、統合が正常に進んでいる証拠でもあります。しかし当事者にとっては、自分の存在が否定されているように感じられることがあります。ここで対立的な振る舞いに転じると、統合全体が停滞し、結果として従業員が板挟みになります。
実務上の対処として有効なのは、自分の役割を最初に限定しておくことです。「取引先の引き継ぎと技術指導までを担い、経営判断には関与しない」と定めておけば、関与しないことを不自然に感じずに済みます。役割が曖昧なまま残ることが、葛藤を最も大きくします。
また、譲渡の段階で買い手に対して、雇用や事業の継続についてどこまでの考え方を持っているかを確認しておくことも、後の受け止め方を変えます。当社では、こうした論点を譲渡前の面談で整理したうえで条件を詰めることを基本にしています。
譲渡前にできる、統合のための準備
最後に、譲渡を検討している段階でできる準備を挙げます。いずれも、譲渡先が決まる前から着手できるものです。
第一に、資料と記録の整備です。取引先ごとの契約書、価格の取り決め、過去の経緯。就業規則と実際の運用の差。設備の台帳と点検の記録。これらが揃っていれば、デューデリジェンスも統合も円滑になります。逆に、書面が残っていない事項が多いほど、引き継ぎは属人的な説明に頼ることになります。
第二に、幹部の育成です。譲渡後に会社を回すのは、残る人たちです。判断の権限を少しずつ移し、経営者がいない状態で回してみる期間を設けておくと、譲渡後の混乱が小さくなります。これは企業価値の観点からも評価される要素です。
第三に、自分自身の身の振り方です。譲渡後に何をするかを考えておかないと、会社に長く留まりたい気持ちが強くなり、引き継ぎの区切りが付けにくくなります。退任後の予定を持っている経営者ほど、引き継ぎが円滑に進む傾向があります。