M&Aでは、最終契約に署名した日と、代金を払って株式を受け取る日が同じとは限りません。その間にも会社は事業を続け、現預金も借入も在庫も動きます。では、そのずれは誰が負担するのか——これを決めるのが価格調整条項です。本稿では、クロージング調整方式とロックドボックス方式という二つの型を比べ、中小企業のM&Aで買い手が押さえるべき論点を整理します。
なぜ価格を調整する必要があるのか
買い手が価格を決めるとき、根拠にしているのはある時点の決算書です。たとえば直近の決算期末の純資産や、そこから算出した企業価値。ところが、実際に代金を払うのは数か月後かもしれません。その間に会社が利益を上げていれば価値は増え、赤字が続けば減ります。役員報酬や配当として資金が社外に出ていれば、当然その分は目減りします。
この「ずれ」を放置すると、不公平が生じます。買い手からすれば、決算期末の純資産を前提に払ったのに、決済時には現預金が減っていた——という事態は避けたい。売り手からすれば、署名後も自分が経営して稼いだ分は評価してほしい。双方の言い分に理があるからこそ、どこかで線を引く必要があります。
線の引き方が二つあります。一つは「決済時点の実際の数字で精算する」というやり方(クロージング調整方式)、もう一つは「過去のある時点を基準日と決めて、そこから後の変動は買い手が引き受ける代わりに、社外への資金流出を禁じる」というやり方(ロックドボックス方式)です。
なお、中小企業の相対取引では、署名と決済を同日に行う(サイニングとクロージングが同時)案件も少なくありません。その場合は調整の必要性そのものが小さくなります。ずれが生じるのは、許認可の承継手続き、金融機関との調整、名義株の解消といった前提条件の充足に時間がかかるケースです。
クロージング調整方式|決済後に精算する
クロージング調整方式では、まず仮の価格で決済し、決済日を基準とした計算書(クロージング貸借対照表など)を後から作成して、確定額との差を精算します。精算の対象になるのは、典型的には次の三つです。
- 純有利子負債——借入金から現預金を差し引いた額。決済日時点の実額で企業価値から控除する
- 運転資本——売掛金・在庫・買掛金の水準。基準となる標準値を決め、そこからの増減を価格に反映する
- 純資産——純資産基準で価格を組んだ場合に、決済日時点の実額との差を調整する
この方式の利点は、決済時点の実態を価格に反映できることです。買い手にとっては、署名後に現預金が流出しても数字で取り戻せる安心感があります。
一方で、手間と争いの種を抱えます。決済日を基準とした計算書を誰が作り、誰が検証し、意見が食い違ったらどう決めるのか——ここを契約で詳細に定めておかないと、決済後に紛争になります。また、運転資本の「標準値」をいくらに置くかは、季節性のある事業では容易ではありません。夏に繁忙期が来る会社で、閑散期の水準を標準にすれば、決済のタイミング次第で大きな調整額が出ます。
中小企業の案件でこの方式を採るなら、調整項目を絞り、計算のルールを具体的に書き切ることが肝心です。「一般に公正妥当と認められる会計基準に従い」とだけ書いて済ませると、後から解釈が割れます。どの勘定科目をどう扱うか、例示まで含めて詰めておくことをおすすめします。
ロックドボックス方式|基準日を固定して漏出を禁じる
ロックドボックス方式は、過去のある時点(直近の決算日や月末など)を基準日と定め、その時点の貸借対照表をもとに価格を確定させる方法です。基準日以降に生じた損益は買い手に帰属する扱いとし、決済後の精算は行いません。箱に鍵をかけて、そのまま引き渡すイメージです。
この方式の要は「漏出(リーケージ)の禁止」です。基準日から決済日までの間に、売り手側へ不当に価値が流れ出ることを契約で禁じます。典型的な漏出には次のようなものがあります。
- 配当、自己株式の取得
- 通常の水準を超える役員報酬・賞与・退職金の支払い
- オーナーや関係会社への貸付、債権の放棄
- オーナー個人の費用の会社負担
- M&Aに関する売り手側の費用を会社が負担すること
一方で、通常の事業活動に伴う支出や、あらかじめ合意した支払い(許容漏出)は例外として認めます。従業員への通常の賞与、既往の契約に基づく支払いなどです。何を許容するかは事前に列挙しておきます。
買い手にとっての利点は、価格が早く確定し、決済後の精算作業と紛争リスクがないことです。逆に、基準日以降の業績悪化は買い手の負担になります。したがって、基準日から決済までの期間が長い案件や、業績の振れが大きい事業では、慎重な判断が要ります。基準日以降の月次の推移を報告してもらう取り決めを併せて置くのが実務的です。
どちらを選ぶか|買い手から見た判断軸
二つの方式は優劣ではなく、案件の性格による使い分けです。買い手の立場から見た判断軸を整理します。
| 観点 | クロージング調整 | ロックドボックス |
|---|---|---|
| 価格の確定時期 | 決済後(精算を経て確定) | 署名時に確定 |
| 基準日以降の損益 | 売り手に帰属(精算で反映) | 買い手に帰属 |
| 手続きの負担 | 計算書の作成・検証が必要 | 不要。ただし漏出の監視は要る |
| 紛争の起きやすさ | 計算方法をめぐって起きやすい | 漏出の該当性をめぐって起きうる |
| 向いている場面 | 決済まで期間がある。運転資本の振れが大きい | 署名と決済が近い。数字が安定している |
中小企業のM&Aでは、そもそも決算日以降の月次資料が整っていない会社も多く、精緻な精算計算が現実的でない場合があります。その場合は、基準日を直近の決算日または月末に置き、漏出の禁止を丁寧に列挙するロックドボックス的な組み方のほうが、実務が回りやすいことがあります。
ただし、どちらを採るにせよ、署名から決済までの間に会社を通常どおり運営してもらう約束(誓約条項)は必須です。重要な資産の処分、新規の借入、主要な取引先との契約変更、従業員の大幅な処遇変更などは、買い手の事前同意を要するものとして定めます。
契約条項の全体像は「最終契約で買い手が確認する条項|表明保証と補償の設計」もあわせてご覧ください。
中小案件で起きやすい実務の落とし穴
第一に、役員退職金の扱いです。売り手が退職金を受け取る前提で価格を組んでいる場合、その支払いが基準日の前なのか後なのか、価格に織り込み済みなのかを明確にしておかないと、決済間際に認識のずれが表面化します。退職金は税務上の論点も伴いますので、金額と時期を早い段階で確定させ、税理士に確認しておくことをおすすめします。
第二に、オーナーへの貸付金・借入金です。中小企業では会社とオーナー個人の間で資金が行き来していることが珍しくありません。決済までに清算するのか、価格に織り込むのか、残したまま引き継ぐのかを決めておく必要があります。残したまま引き継げば、買収後に回収の交渉をすることになり、関係が難しくなります。
第三に、季節性です。運転資本の調整を入れる場合、基準となる標準値を単月の数字で決めると、決済月によって有利不利が大きく振れます。複数月の平均を用いるなど、事業の実態に合った決め方にしてください。
第四に、決済日の資金です。調整の結果として買い手が追加で支払う可能性があるなら、その分の資金余力を確保しておく必要があります。借入で資金を組む場合、調整額まで含めた枠を金融機関と話しておかないと、精算のタイミングで資金繰りが苦しくなります。
まとめ|「いつの数字で買うのか」を先に決める
価格調整条項は、技術的で地味な論点に見えますが、実際には「自分はいつの時点の会社を買うのか」を定める、きわめて本質的な取り決めです。ここが曖昧なまま署名すると、決済の直前に数字の解釈をめぐって交渉が再燃し、それまで積み上げた信頼関係が揺らぎます。
買い手として押さえるべきは三つです。①基準日をいつに置くか、②基準日以降の損益と資金流出を誰が負担するか、③調整が必要な場合の計算方法と検証手続きを具体的に書くこと。この三つを、意向表明や基本合意の段階から前提として共有しておくと、最終契約の交渉が短くなります。
そして、条項の細部は必ず弁護士に確認してください。会計処理や税務の取扱いについても、案件ごとに判断が分かれますので、公認会計士・税理士等の専門家にご相談のうえで設計することをおすすめします。
当社プラチナパートナーズでは、買い手企業様の条件設計について、意向表明の組み立てから最終契約の論点整理、専門家のご紹介までご支援しています。ご相談は無料です。
よくあるご質問
Free Consultation
「いつの時点の会社を買うのか」を明確にしましょう
価格調整の組み方や誓約条項の設計について、専門家のご紹介を含めてご相談を承ります。
買い手企業様のご相談は無料です。