M&Aの後、従業員の有給休暇はどうなるのか。退職金は引き継がれるのか。社会保険の手続きは要るのか——買収する側にとっても、譲渡するオーナーにとっても、実務上必ず確認が必要になる論点です。給与体系や評価制度のように「揃えるかどうか」を判断する領域と違い、これらは法律上の扱いが決まっている部分と、当事者の合意で決まる部分が混在しています。本稿では、その線引きを整理したうえで、PMIでの進め方を解説します。制度全体の統合方針については「人事制度の統合|給与・評価・就業規則をどう揃えるか」をご覧ください。

スキームによって引き継ぎ方が変わる

まず押さえるべきは、株式譲渡と事業譲渡で扱いが根本的に違うという点です。

項目株式譲渡事業譲渡
労働契約会社が存続するため、そのまま継続買い手と新たに労働契約を結ぶ(従業員の同意が必要)
勤続年数通算される通算するかどうかは個別の合意による
有給休暇の残日数そのまま引き継がれる個別の合意による(通算するのが一般的)
退職金規程がそのまま存続買い手の制度に移るか、譲渡時に精算するかを決める
社会保険原則として継続資格喪失・取得の手続きが必要

中小企業のM&Aでは株式譲渡が多く用いられ、この場合は「何もしなければそのまま続く」のが原則です。従業員の不安に対しては、まずこの点を明確に伝えることが最も効果的な安心材料になります。

年次有給休暇|残日数と勤続年数の扱い

株式譲渡では、有給休暇の残日数も、次回の付与日数を決める勤続年数も、そのまま引き継がれます。買収を理由に残日数を消滅させることはできません。

PMIで確認したいのは、むしろ管理の実態のほうです。中小企業では、次のような状態が残っていることがあります。

  • 有給の残日数を会社として管理しておらず、本人の自己申告になっている
  • 年5日の時季指定義務(年10日以上付与される従業員が対象)への対応が不十分
  • 入社日がばらばらで基準日が統一されておらず、付与漏れが生じやすい
  • 半日単位・時間単位の取得ルールが規程になく、運用だけで行われている

これらは、買収後に買い手が引き継ぐ労務リスクになります。統合の初期に、有給休暇の管理台帳を整備し、基準日と付与日数の考え方を明確にしておくことをお勧めします。基準日の統一は従業員に有利な方向(前倒し)で行えば不利益変更の問題は生じにくく、比較的着手しやすい項目です。

退職金|規程・積立・支給水準を三点で確認する

退職金は、買収後に「思っていたより負担が大きい」と判明しやすい領域です。次の三点をセットで確認してください。

1. 規程

退職金規程が存在するか、最新版か、支給の算定式(勤続年数×基準額×係数など)がどうなっているか。規程がなくても長年の支給慣行がある場合は、労働条件として認められる可能性があります。過去の支給実績も確認してください。

2. 積立

中小企業退職金共済、特定退職金共済、保険商品、社内引当など、どのような形で原資を用意しているか。規程上の支給水準と積立額の差(不足額)を必ず算出します。中小企業では、積立が支給水準に追いついていない例が少なくありません。

3. 役員退職慰労金

従業員の退職金とは別に、役員退職慰労金の規程や内規がないかを確認します。譲渡に伴い前オーナーへ支給する場合は、金額の妥当性と株主総会決議の要否を確認する必要があります(「役員退職慰労金とM&A」参照)。

不足が判明した場合、成立前であれば価格交渉や表明保証で手当てできます。成立後に判明したのであれば、資金計画に織り込み、複数年での積み増し計画を立てるのが現実的です。規程の引き下げは慎重な検討を要しますので、専門家に相談してください。

社会保険・労働保険|手続きと見落としやすい点

株式譲渡では、会社が存続するため従業員の社会保険は原則として継続します。それでも、次の手続きや確認は生じます。

  • 役員の変更に伴う手続き——前オーナーの退任、新任役員の資格取得に関する届出
  • 事業所情報の変更——商号や所在地を変更する場合の届出
  • 未加入者の是正——加入要件を満たすのに未加入となっている従業員がいないかの確認
  • パート・アルバイトの適用——勤務時間・日数の要件に照らして適用漏れがないかの確認
  • 労働保険の年度更新——申告内容と実際の賃金総額の整合

とりわけ社会保険の未加入は、遡って保険料を求められる可能性がある論点です。デューデリジェンスで把握していれば価格や契約条件に織り込まれますが、成立後に発見した場合も、放置せず是正計画を立てることが必要です。是正は従業員の手取りにも影響するため、対象者への説明を丁寧に行ってください。

諸手当・福利厚生|統合しない選択もある

住宅手当、家族手当、通勤手当、資格手当、社員旅行、慶弔見舞金、社宅——こうした個別の制度は、両社で内容が異なるのが普通です。これらをすべて揃えようとすると、作業量が膨らむわりに効果は限定的です。

判断の目安は、グループ内で人が異動する可能性があるかどうかです。異動や登用が想定される職種であれば、待遇差が説明できなくなるため統合の必要があります。一方、事業内容も勤務地も独立していて人の行き来がないのであれば、当面そのままでも実害はありません。

ただし、次の場合は早めの整理が必要です。

  • 手当の名称と実態が乖離しており、割増賃金の算定基礎に含めるべきか判断が分かれるもの
  • 固定残業代として支給されているが、対応する時間数が明示されていないもの
  • 実費精算のはずが定額で支給され、課税関係が整理されていないもの

これらは労務上・税務上のリスクを伴うため、統合の要否とは別に是正の対象と考えてください。

労務条件の統合スケジュールの考え方

ここまでの内容を、時期の目安として整理します。会社の規模や状況によって前後しますので、型としてご覧ください。

時期主な取り組み
成立〜1か月労働条件は当面変わらないことの明示、役員変更に伴う社会保険手続き、就業規則・各種規程の現物確認
〜3か月有給休暇の管理台帳の整備、社会保険の適用漏れの確認、退職金の規程・積立・不足額の把握
〜6か月労務コンプライアンス上の是正計画の実行、諸手当の整理(割増賃金の算定基礎の確認を含む)
〜12か月以降統合が必要な制度の方向性の決定、移行措置を含む設計と説明、翌年度からの段階的な適用

全体を通じた原則は、「是正は早く、統合はゆっくり」です。法令に適合させる作業は従業員にとっても不利益ではなく、早く進めるほどリスクが減ります。一方、制度を揃える作業は急いでも良いことは少なく、信頼関係ができてから進めるほうが結果的に速く進みます。

なお、労務に関する取り扱いは個別事情や法改正によって結論が変わります。実際の対応にあたっては、必ず社会保険労務士・弁護士などの専門家にご確認ください。当社は、譲渡の条件設計の段階から、従業員の処遇の引き継ぎを含めてご相談を承っています。

よくあるご質問

A.リセットされません。株式譲渡では会社の法人格も労働契約もそのまま続くため、勤続年数も有給休暇の残日数も引き継がれます。買収によって会社の株主が変わっただけであり、従業員と会社の間の労働契約に変更はないためです。一方、事業譲渡の場合は買い手の会社と新たに労働契約を結ぶ形になるため、有給や勤続年数の扱いは個別の合意によって決まります。この点は従業員が最も不安に感じる部分ですので、早い段階で明確に伝えることをお勧めします。
A.まず、規程上の支給水準と、実際の積立(中小企業退職金共済、保険商品、社内引当など)の状況を突き合わせ、不足額を把握します。不足が大きい場合、譲渡価格の交渉段階であれば価格や表明保証で手当てすることが考えられます。成立後に判明した場合は、資金計画に不足額を織り込み、複数年で積み増す計画を立てるのが現実的です。いずれにせよ、規程を従業員に不利な方向へ変更することは慎重な検討を要しますので、社会保険労務士・弁護士にご相談ください。
A.株式譲渡であれば、会社そのものは変わらないため、従業員の社会保険は原則としてそのまま継続し、大規模な切り替え手続きは生じません。ただし、役員の変更に伴う手続きや、事業所の名称・所在地を変更する場合の届出は必要です。事業譲渡や合併では、資格喪失・取得の手続きが発生します。また、社会保険の未加入者がいた場合の是正は、買収後に速やかに着手すべき論点です。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら