生成AIは、調べものや文章の下書きを速くします。一方でM&Aの実務は、他人の会社の情報を預かって動く仕事です。便利さと守秘義務が正面からぶつかる場面が、日常的に起こります。本稿では、なぜ案件情報を入力してはいけないのか、では何になら使えるのか、社内ルールをどう作るのかを、支援機関としてどう考えるべきかという観点で整理します。特定の会社の運用を紹介するものではありません。当社の募集要項は採用情報をご覧ください。
なぜ案件情報を入力してはいけないのか
理由は「なんとなく危ないから」ではありません。預かった情報を第三者に渡すことになるからです。分解すると四つになります。
- 秘密保持契約の違反になりうる——譲渡企業との契約も、買い手候補とのNDAも、開示先を限定しています。外部サービスへの送信は、たいてい想定された開示先に入っていません
- 自分で回収できない——一度送信した内容がどこに保存され、いつ消えるのかを、こちらから確認する手段がありません。「学習に使わない設定にした」は、契約上の開示の事実を消してくれません
- 断片でも特定される——社名を伏せても、地域・業種・売上規模・創業年・従業員数が揃えば会社は絞り込めます。M&Aの案件概要は、もともとそういう情報の集合です
- 依頼者が知らないうちに起きる——依頼者は、自社の決算書が外部サービスに送られるとは考えていません。事後に知られたときに説明のつかないことは、事前にやらないのが原則です
とくに三つ目は軽く見られがちです。「社名を消したから匿名化した」とは言えません。ノンネームシートをどう書くかに実務者が神経を使うのは、消すべき情報がいかに多いかを知っているからです。同じ判断を、AIツールへの入力にも当てはめる必要があります。
もう一点、記録に残らないという問題があります。案件の情報がどこへ出たかは、後から追えるようにしておくものです。個人が自分の判断で外部ツールに入力すると、その経路は誰の記録にも残りません。漏洩が起きたかどうかを検証できない状態そのものが、支援機関として持つべきでない状態です。
何が「案件情報」にあたるか
線を引くには、対象をはっきりさせる必要があります。次のものは、原則として外部ツールに入れないものとして扱います。
| 区分 | 具体例 | 扱い |
|---|---|---|
| 会社が特定できる情報 | 社名・屋号・所在地・代表者名・取引先名・許認可番号 | 入力しない |
| 預かった資料 | 決算書・試算表・株主名簿・従業員名簿・契約書・登記簿 | 入力しない(貼り付け・添付とも) |
| 作成した案件資料 | ノンネームシート・企業概要書・議事録・買い手候補リスト | 入力しない |
| 組み合わせで特定される情報 | 「○○県の従業員30名の金属加工業、2代目、年商5億」 | 入力しない |
| 個人情報 | 氏名・連絡先・家族関係・健康状態 | 入力しない |
| 公表されている一般論 | 制度の仕組み・公表統計・一般的な手続きの流れ | 使ってよい |
迷ったときの判定は一つで足ります。「この文章を依頼者に見せたとき、自社のことだと分かるか」。分かるなら入力しません。分からないつもりでも、地域と業種と規模が入っていれば、たいてい分かります。
なお、買い手候補の情報も同じ扱いです。守秘義務は売り手に対してだけのものではありません。どの会社がどの案件を検討しているかは、買い手にとっての機密です。
では、どこまでなら使えるのか
「一切使うな」は、実際には守られません。守られないルールは、隠れて使われるという最悪の結果を招きます。使ってよい領域を具体的に示すことのほうが、安全側に効きます。
- 一般論の調べもの——制度の概要、用語の意味、業界の一般的な商習慣。ただし出てきた内容は必ず一次資料で裏を取る。AIの回答をそのまま依頼者に渡さない
- 自分が書いた文章の推敲——固有名詞・数値・会社が特定される記述をすべて外したうえで、言い回しや構成を整える用途。元の文を丸ごと貼らない
- ひな型の骨組み——議事録やメールの一般的な構成を作らせ、中身は自分で書く
- 学習用の想定問答——架空の設定を自分で作って練習する。実在の案件を下敷きにしない
- 社内向けの事務作業——案件情報を含まない、日程調整の文面や資料の体裁など
逆に、使ってはいけない領域も具体的に言葉にしておきます。企業概要書の作成、決算書の要約、株主構成の整理、買い手候補の選定、価格の算定、契約書の確認。これらは案件情報そのものを扱う工程であり、外部ツールに渡す作業ではありません。加えて、税務・法務の個別判断をAIの回答で代替しないこと。具体的な適用は税理士・弁護士にご確認いただくべき領域で、ここを飛ばすと依頼者に誤った前提を渡すことになります。
推敲の用途でも、ひとつ注意があります。文章の癖まで含めて整えすぎると、誰が書いたのか分からない文になります。依頼者に渡す文書は、書いた人が説明できる言葉で書かれているべきです。読み返して自分の言葉でないと感じたら、戻します。
社内ルールをどう作るか
ルールは短いほど守られます。長い規程を作るより、次の五点を決めて全員が言えるようにするほうが実効性があります。
- 使ってよいツールを列挙する——「AI全般」ではなく、具体的に指定する。指定外は使わない。個人アカウントでの業務利用を認めるかどうかも明記する
- 入力してよい情報の範囲を書く——上の表のような形で、区分と具体例で示す。抽象語だけの規程は現場で判断できない
- 迷ったら聞く先を決める——判断に迷う入力は、上長に確認してから行う。確認先がないと、忙しい日に各自の裁量になる
- 出力の扱いを決める——AIの出力をそのまま依頼者に出さない。一次資料で確認し、自分の言葉に直してから使う
- 事故が起きたときの手順を先に決める——入れてしまったと気づいたとき、誰にいつ報告するか。報告した人を責めない運用とセットにする
五つ目が抜けている組織は多いはずです。ルールを厳しくするほど、違反した本人が黙る動機が生まれます。黙られると、依頼者への説明も対処も遅れます。報告が上がる設計のほうが、結果として被害は小さくなります。ミスの報告一般については「自分のミスをどう報告するか」で扱っています。
運用面では、ルールを作った日で終わりにしないことも大切です。ツールは短い周期で機能が変わります。年に一度は、使ってよいツールの一覧と入力範囲を見直すくらいの前提で置いておくのが現実的です。
依頼者にどう説明するか|まとめ
このテーマは、実務者の内部ルールで終わる話ではありません。譲渡を検討する経営者からすれば、預けた決算書がどう扱われるかは、手数料と同じくらい重い関心事です。聞かれたときに答えられる状態にしておきます。
- 預かった資料と、会社が特定される情報を外部の生成AIに入力しないこと
- 開示先は秘密保持契約の範囲に限られること
- 調べものや文章の推敲に使う場合も、会社が特定される記述を含めないこと
- AIの出力をそのまま資料や助言にしないこと。一次資料で確認した内容を渡すこと
聞かれる前に説明できると、なお良い状態です。情報管理は、案件が動き出す前の段階で最も気にされます。秘密保持の運用全体については「秘密保持の運用実務」「案件情報の社内共有範囲」もあわせてご覧ください。
本稿の要点を整理します。
- 案件情報の入力は、契約上の開示にあたり、回収も検証もできない
- 社名を消しても、地域・業種・規模の組み合わせで会社は特定される
- 使ってよいのは一般論の調べもの、固有名詞を外した推敲、ひな型づくり、架空設定の練習
- 出力は必ず一次資料で裏を取り、自分の言葉に直してから使う
- ルールは短く、使ってよいツール・入力範囲・相談先・出力の扱い・事故時の手順の五点
- 依頼者に聞かれたとき、同じ内容を説明できる状態にしておく