本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。最終契約を結んだ日に、そのまま代金を受け取って株式を引き渡せる案件ばかりではありません。契約の締結(サイニング)と決済・引渡し(クロージング)の間に、数週間から数か月の期間が空くことがあります。この期間は、当事者にとっては「もう決まったのに、まだ終わっていない」という落ち着かない時間です。仲介者が何を管理し、どう説明するかで、ここでの離脱や不信は大きく減らせます。当日の段取りは「クロージング当日の段取りとチェックリスト」、条件の消化管理は「クロージング前提条件の管理」と併せてお読みください。

なぜ同時に済ませられない案件があるのか

中小企業の株式譲渡では、契約と決済を同じ日に行う「同時決済」が最も多い形です。手続きが短く、間に何も起きないため、当事者の負担が軽いからです。それでも締結日と決済日を分けるのは、契約を結んでからでないと動かせない手続きがあるときです。

  • 許認可の承継手続きや、官公庁への届出に時間がかかる
  • 重要な取引契約にチェンジオブコントロール条項があり、相手方の同意取得に時間が要る
  • 買い手の融資実行日が決まっており、そこまで決済を待つ必要がある
  • 株主の一部からの株式の集約や、名義の整理が終わっていない
  • 譲渡対象から外す資産(オーナー個人が使用している不動産・車両など)の移転が残っている
  • 経営者保証の解除について、金融機関との調整が続いている

いずれも「契約前に全部終わらせる」ことが理屈のうえでは可能です。しかし相手方の同意取得や金融機関への相談は、契約が確定していない段階では動かしにくいものが多く、結果として締結を先に行い、条件が揃った時点で決済する形をとります。どちらが良い悪いではなく、その案件で動かせない手続きがどれかによって決まります。

分けるかどうかの判断材料

仲介者は、基本合意の前後には「この案件は同時決済で行けるか」の見立てを持っておきます。判断の材料は次のとおりです。

確認する点同時決済で行ける目安分けたほうがよい目安
許認可株主が変わっても継続し、事後の届出で足りる事前の承認・審査が必要、あるいは所管官庁への確認が済んでいない
主要取引先の契約支配権の変更に関する条項がない、または通知で足りる事前同意が必要な契約が売上の中心にある
買い手の資金自己資金、または融資の内諾が出ている融資審査がこれからで、実行日が読めない
株主構成株主名簿と実態が一致し、全株の集約が済んでいる少数株主や名義の整理が残っている
資産の切り分け譲渡対象がそのまま確定している個人資産の買取や賃貸借への切り替えが残っている
経営者保証決済日に合わせた解除の見通しが立っている金融機関の判断が出ていない

右の列に一つでも当てはまるなら、その手続きに必要な日数を関係者に確認してから日程を決めます。見込みで日程を置くと、後から決済日を動かすことになり、当事者の不安を増やします。期間は短いほどよいという原則は変わりませんが、無理な短縮より動かない日程のほうが価値があります。

期間中にやること・やってはいけないこと

締結から決済までの間、譲渡対象となる会社はまだ売り手のものです。しかし買い手は、契約時に見た状態のまま引き渡されることを前提に価格を決めています。このずれを埋めるために、最終契約にはこの期間の会社運営に関する取り決め(誓約事項)が置かれるのが通例です。典型的には次のような内容です。

  • 通常の業務の範囲を超える取引(多額の設備投資、重要な資産の処分、新規の借入)は事前に協議する
  • 役員報酬や退職金の新たな決定、従業員の大幅な処遇変更を行わない
  • 配当や、オーナーへの貸付・返済の扱いを定めどおりにする
  • 重要な契約の解約・締結、訴訟の発生などがあれば速やかに通知する
  • 前提条件を満たすために必要な手続きを、双方が誠実に進める

仲介者の役割は、この条項を売り手が日常業務で守れる言葉に翻訳して伝えることです。条文のまま渡しても、現場では何をしてよいのか分かりません。「いつもどおりの仕入れ・販売・採用は続けてください。金額の大きい買い物と、人の処遇を変える話だけは、先にご相談ください」という言い方まで落として初めて実務が回ります。なお、どこまでが通常の業務の範囲にあたるかは条項の書き方次第ですので、判断に迷う場面では弁護士に確認してください。

期間中に起きる想定外と、その備え

この期間に実際に起きうることを、あらかじめ双方と共有しておきます。起きてから説明するのと、起きる前に「こういうことがあり得ます」と伝えてあるのとでは、当事者の受け止め方がまったく違います。

  • 業績の変動:決算期をまたぐ場合、契約時の数字と決済時の数字がずれる。価格調整の定めがあるならその計算方法を、ないならずれをどう扱うかを先に確認しておく
  • 主要な取引先・人の離脱:大口の解約や、キーパーソンの退職。通知義務の対象になることが多く、場合によっては前提条件に触れる
  • 情報の漏れ:期間が延びるほど、社内で話が伝わる可能性が上がる。開示の日取りを先に決めておく
  • 気持ちの揺り戻し:契約後に売り手が寂しさや迷いを口にすることは珍しくない。週次で連絡を取り、残っている手続きと残り日数を具体的に伝える
  • 不可抗力・災害:契約に定めがあるかを確認し、ない場合の扱いは弁護士に相談する

備えの中心は、連絡の頻度を落とさないことです。契約が済むと仲介者の連絡が減りがちですが、当事者にとっては「決めたあとに放っておかれた」時間になります。週に一度、前提条件の残りと次の予定を一枚にまとめて双方へ送るだけで、不安のほとんどは消えます。

前提条件の消化を見える化する

期間中の仲介者の実務は、ほぼこの一点に集約されます。最終契約に書かれた前提条件を一覧にし、誰が・いつまでに・何をすれば満たされるかを一行ずつ埋めていきます。管理表の列は次のように置きます。

書く内容
条件契約上の条項番号と、平易な言い換え
担当売り手・買い手・専門家のいずれか。必ず個人名まで書く
期限決済日から逆算した日付。相手方の所要日数を確認して置く
証跡満たされたことを示す書類(同意書、議事録、登記事項証明書など)
状態未着手・依頼中・回答待ち・完了の四段階に統一する

状態の言葉を四つに固定するのは、「だいたい進んでいます」という曖昧な報告をなくすためです。「回答待ち」であれば、誰に何を出していつ返ってくるのかが必ず書けます。

期限を過ぎそうな項目が出たら、決済日を動かすかどうかの相談を早い段階で持ち出します。直前まで黙っていて前日に延期を伝えるのが、この期間で最も信頼を失う進め方です。延期そのものより、知らされなかったことに当事者は反応します。遅れが見えた時点で、理由・新しい見込み・それによって変わることの三つを揃えて共有してください。

本稿は仲介実務の一般的な型を解説するものです。契約条項の解釈や個別案件における法的な適用は弁護士に、税務の取り扱いは税理士にご確認ください。アドバイザーは法律事務・税務代理を行いません。

よくあるご質問

A.案件によります。手続きが短く済むなら同じ日に行う形が当事者の負担も小さく、間に何も起きないという利点があります。分けるのは、許認可の手続きや取引先の同意取得、買い手の融資実行など、契約が確定してからでないと動かせない事柄が残っているときです。判断の順序は「分けたいかどうか」ではなく「契約前に終えられない手続きがあるかどうか」です。
A.原則として通常どおりの経営を続けます。ただし最終契約には、その期間の会社運営について取り決めが置かれるのが通例で、多額の設備投資や重要な資産の処分、新規の借入、役員報酬や従業員の処遇の大きな変更などは、事前に協議する形になることが多くあります。どこまでが通常の範囲にあたるかは条項の書き方によって変わりますので、迷う場面では弁護士にご確認ください。
A.契約に価格調整の定めがあるかどうかで扱いが分かれます。定めがある場合は、あらかじめ決めた計算方法に従って調整されます。定めがない場合、業績の変動だけを理由に価格を動かすことは通常できません。だからこそ、契約前の段階で「期間中に何が起きたらどう扱うか」を双方で確認しておくことが実務上の要点になります。
A.遅れる可能性が見えた時点です。確定してから伝えるのでは遅く、直前の連絡は延期そのものよりも強い不信を生みます。伝えるときは、遅れの理由、新しい見込み、それによって変わること(資金の準備、従業員への開示の日取り、関係者の予定)の三つを揃えてください。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら