本稿はM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。DDが終わると、最終契約——株式譲渡契約(SPA:Share Purchase Agreement)の交渉に入ります。ここは弁護士の領域だと思って距離を置く仲介者が少なくありませんが、それは半分正しく、半分間違いです。条文の起案と法的判断は弁護士の仕事。しかし「どの論点があり、それぞれを誰がいつ決めるか」を管理し、交渉を前に進めるのは仲介者の仕事です。本稿では、条項の構造を機能で読む方法、表明保証・補償・前提条件の論点、弁護士との役割分担、論点表の作り方を、現場でそのまま使える型として書きます。LOIとSPAの関係の基礎は「基本合意書(LOI)と最終契約書(SPA)の違い」を先にお読みください。

SPAの全体構造|条項を「機能」で読む

SPAは長い契約書ですが、条項はそれぞれ「どのリスクを、誰に、どう配分するか」という機能を持っています。機能で読むと、どの条項がビジネス論点で、どれが法務論点かが見えてきます。

条項群機能仲介者が確認すること
売買の基本条項対象株式・譲渡価格・支払方法・価格調整LOIの合意内容と一致しているか。価格の定義(株式価値か事業価値か)、調整方法が明確か
クロージング前提条件取引実行の条件。満たされなければ実行しない条件が現実的に満たせるか。誰が・いつまでに・何を充足させるかの一覧
表明保証一定時点の事実の表明。違反時は補償の対象売り手が知らないことを保証していないか。DDで開示した事項が除外されているか
誓約(コベナンツ)クロージング前後の作為・不作為の約束(通常運営、競業避止、キーマン残留など)売り手の事業運営に無理な制約がないか。競業避止の範囲と期間が合意通りか
補償表明保証違反・誓約違反時の損害填補のルール上限・期間・下限・損害の範囲・支払方法の各論点が漏れなく議論されたか
解除・一般条項解除事由、秘密保持、準拠法、紛争解決解除事由がLOIと整合しているか。秘密保持の範囲

仲介者が最初にすべきは、買い手側弁護士から届いた初稿を、この機能ごとに分解してLOIおよびDDの結果と照合することです。LOIで合意したはずの条件が初稿に反映されていない、DDで手当てすると合意した発見事項が抜けている——こうしたズレを最初に見つけるのは、両者の経緯を一番よく知っている仲介者しかいません。

表明保証|売り手側が確認すべき範囲の論点

表明保証は、売り手が「契約時(およびクロージング時)において、会社に関するこれらの事実は真実かつ正確である」と表明するものです。違反があれば補償の対象になるため、売り手にとっては譲渡後も残る責任の源泉です。買い手側の初稿が広範な表明保証を求めてくるのは自然なことで、悪意ではありません。仲介者の役割は、売り手が「知らないことを保証する」状態にならないよう、次の論点を売り手と売り手側弁護士に確認してもらうことです。表明保証の基礎は「表明保証とは」を参照してください。

  • 「知る限り」の限定:売り手が知り得ない事項(取引先の内部事情、第三者の権利侵害など)に「売り手の知る限り」という限定を付けるか
  • 開示済み事項の除外:DDで開示した事項(未払残業代の可能性、係争中の案件など)は、開示別紙(ディスクロージャー・スケジュール)に記載して表明保証の例外にする。DDの掲載ログと開示別紙を突き合わせるのは仲介者の仕事
  • 時点の限定:契約時のみか、クロージング時にも再表明するか。クロージングまでの期間が長いほど、再表明の負担が重くなる
  • 「重大な」の定義:「重大な違反」「重大な悪影響」といった表現の判断基準が曖昧なままになっていないか
  • 将来に関する表明:事業計画の達成や将来の業績について表明を求められていないか。将来は保証できない
  • 売り手個人の属性:中小企業では売り手が個人のオーナーであることが多い。法人が売り手の場合と異なり、補償責任が個人の資産に直結することを本人が理解しているか

ここで仲介者が絶対に言ってはいけないのは「この程度なら大丈夫でしょう」です。表明保証の範囲は、法的助言そのものです。売り手側弁護士が付いていない案件では、起用を強く勧めてください。

補償|上限・期間・下限・支払方法の考え方

補償条項は、表明保証違反や誓約違反があった場合に、誰がどこまで損害を填補するかを定めます。論点は決まっていますが、それぞれの数値には案件ごとに答えが違い、「相場」と呼べる一律の水準はありません。仲介者が数値の目安を口にすると、それが交渉の基準になって両当事者の弁護士の判断を歪めます。仲介者の仕事は、論点を漏れなく出すことです。

  • 上限(キャップ):売り手が負う補償責任の総額の上限を、譲渡価格に対してどう定めるか。表明保証の種類(基本的事項・税務・その他)ごとに上限を分ける設計もある
  • 存続期間:補償請求ができる期間。一般的な事項は短めに、税務や基本的事項(株式の所有など)は長めに設定する考え方が取られることが多い
  • 下限(デミニミス・バスケット):少額の請求を排除する個別の最低額と、累計がある額を超えて初めて請求できる仕組み。その額を超えた分だけか、全額か
  • 損害の範囲:直接損害のみか、逸失利益や弁護士費用を含むか。DDで認識していた事項についての請求を排除するか
  • 支払方法:譲渡代金の一部をエスクローに預ける、分割払いと相殺する、など。売り手にとっては手取りの確定時期に直結する
  • 特別補償:DDで判明した特定のリスク(係争中の案件、特定の税務リスクなど)について、上限や期間の制限とは別枠で補償を定める

中小企業のM&Aでは、売り手個人が補償主体になります。譲渡後の生活設計に補償責任が影響し得ることを、売り手が理解したうえで判断しているか。仲介者は判断を代行せず、判断に必要な材料を揃える立場です。

クロージング前提条件(CP)|チェックリスト化して管理する

クロージング前提条件(CP:Conditions Precedent)は、それが満たされなければ取引を実行しない、という条件です。典型的なものを挙げます。

  • 表明保証がクロージング時点でも真実かつ正確であること
  • クロージングまでの誓約が履行されていること(通常運営の維持、重要な契約の変更禁止など)
  • 重大な悪影響(MAC)が発生していないこと
  • 許認可の承継・変更手続や、チェンジ・オブ・コントロール条項のある契約についての第三者同意の取得
  • キーマンとの雇用・残留合意の締結
  • 株式譲渡承認(取締役会または株主総会)の決議、株主全員の譲渡同意
  • 金融機関の同意、経営者保証の解除または解除の見込みの確認
  • 買い手側の資金調達の完了(ファイナンス・アウトとして扱うかは大きな論点)

仲介者はSPA締結の時点で、CPを一覧表にして「担当・期限・現状・証憑」の列を付け、クロージングまで毎週更新するのが型です。CPが多すぎると不成立リスクが高まるので、初稿の段階で「本当に条件にする必要があるか、誓約で足りるのではないか」を両者の弁護士に問い返す視点も持ってください。クロージング当日の段取りは「クロージング当日の段取りとチェックリスト」で詳述しています。

弁護士との役割分担|仲介者がやること・やらないこと

SPA交渉での役割分担を、明確に持ってください。

弁護士がやること

  • 条文の起案・修正(マークアップ)と、法的効果の判断
  • リスクの法的評価と、依頼者への助言
  • 相手方弁護士との条文協議

仲介者がやること

  • LOI・DDの経緯を弁護士に正確に引き継ぐ(発見事項の一覧、合意済みの手当て、掲載ログ)
  • 論点表(イシューリスト)の作成と更新、スケジュール管理
  • ビジネス論点(価格調整の設計、キーマンの処遇、引継ぎ期間、競業避止の範囲など)について両当事者の意向を確認し、調整する
  • 両当事者の温度感の橋渡し。条文の応酬で感情的になった空気を戻す

仲介者がやってはいけないこと

  • 条文の法的効果を断定する(「この条項なら責任は負いません」)
  • 弁護士抜きで文言を決める、当事者の代わりにマークアップを返す
  • 一方の弁護士のコメントを「妥当」「行き過ぎ」と評価して他方に伝える
  • 他方当事者の交渉上の許容範囲を伝える。仲介者は両者の間に立つ存在で、中小M&Aガイドライン(第3版・令和6年8月)が求める利益相反への配慮にも反する

交渉を前に進める型|論点表と優先順位付け

初稿の往復が三回、四回と続いて膠着するのは、論点が整理されないまま条文単位で応酬しているときです。仲介者が持つべき道具は論点表です。列は「No / 条項 / 論点 / 買い手の主張 / 売り手の主張 / 種別(法務・ビジネス) / 優先度 / ステータス / 決定内容」。この表を両当事者と弁護士に共有し、毎回の協議で「残っている論点はこれだけ」と見える化します。

優先順位は三段階で付けるよう教えています。

  • 死活論点:折り合えなければ案件が成立しない(価格の定義、キーマンの処遇、特別補償の有無など)
  • 交渉論点:双方に譲る余地があり、他の論点との組み合わせで解決できる(補償の上限と期間、エスクローの有無など)
  • 譲歩可能論点:こだわりが薄く、相手の要望を受け入れて信頼を得る材料になる

交渉論点は個別に争わず、パッケージで提案するのが型です。「補償期間を短くする代わりに上限を上げる」「エスクローを置く代わりに下限を緩める」といった組み合わせは、条文単位の応酬では出てきません。ビジネス論点の交渉術は「M&Aの価格交渉」も参照してください。そして最後に、時間軸を管理してください。SPA交渉が長引くほど、事業環境の変化、キーマンの動揺、オーナーの疲弊といった別のリスクが育ちます。「案件がブレイクする典型パターン」で解説する多くの失速は、契約交渉の停滞から始まります。

本稿は仲介実務の一般的な型を解説するものであり、法的助言ではありません。個別案件における契約条項の解釈・設計・リスク評価は、必ず弁護士にご確認ください。税務に関わる事項は税理士にご確認ください。

よくあるご質問

A.条文の起案や法的効果の判断は弁護士の領域であり、仲介者が行うべきではありません。仲介者の役割は、LOIで合意した内容やDDの発見事項を弁護士に正確に伝え、論点表(イシューリスト)を整えて交渉のプロセスを管理することです。当事者が弁護士を起用していない場合は、起用を強く勧めるのが仲介者の責務です。
A.案件の規模、DDの深度、発見事項の内容、売り手の属性(個人か法人か)によって大きく異なり、一律の水準はありません。仲介者が数値の目安を口にすると、それが交渉の基準になってしまい、両当事者の弁護士の判断を歪めます。仲介者は「上限・期間・下限・損害の範囲・支払方法」という論点を漏れなく出し、両当事者が弁護士と相談して決めるための土台を整える立場です。
A.止めるというより、リスクを理解したうえでの判断かどうかを確認してください。表明保証違反は売り手個人の補償責任につながり、譲渡後の生活設計に影響し得ます。「知る限り」の限定、DDで開示した事項の除外、時点の限定といった論点を売り手の弁護士と一緒に確認してもらい、そのうえでの判断であれば尊重します。仲介者は判断を代行せず、判断に必要な材料を揃えるのが役割です。

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執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら