IT企業やSaaS事業の売却は、近年のM&A市場で最も活発な領域のひとつです。あらゆる産業でデジタル化が進む中、事業会社・IT大手・投資ファンドのいずれもがソフトウェア企業やエンジニア組織の獲得に強い関心を持っており、規模の小さな会社であっても複数の買い手候補が手を挙げることは珍しくありません。一方で、IT企業の価値評価は「利益が同じでも、事業の中身によって評価が大きく変わる」という特徴があります。本稿では、IT企業・SaaS事業の売却相場の考え方と、買い手が注目するKPI(重要業績指標)、そして売却を有利に進めるための準備について解説します。

IT業界でM&Aが活発な理由

IT業界のM&Aが活発である背景には、需要側と供給側それぞれの事情があります。買い手側の最大の動機は、IT人材の恒常的な不足です。エンジニアの採用競争は激化が続いており、一人ずつ中途採用を積み上げるよりも、既にチームとして機能しているエンジニア組織をM&Aで獲得するほうが早い、という判断が広がっています。いわゆる「アクハイヤー(人材獲得を目的とした買収)」という言葉が定着したのも、この業界ならではの現象です。

また、事業会社が自社のDXを進めるために開発会社を取得するケース、SaaS企業が機能補完やクロスセルを狙って周辺サービスを取得するケースなど、戦略的な買収の裾野も広がっています。売り手側でも、創業者の年齢にかかわらず「単独での成長に限界を感じた」「大きな資本のもとでプロダクトを伸ばしたい」といった成長戦略型の売却が多いことが、IT業界の特徴です。後継者不在による事業承継だけでなく、30〜40代の創業者によるイグジットも一般的になっています。

IT企業・SaaS事業の売却相場の考え方

「うちの会社はいくらで売れるのか」というご質問に対して、あらかじめお伝えしたいのは、確定的な相場や倍率(マルチプル)を保証することは誰にもできないという点です。そのうえで、実務上よく用いられる評価の枠組みをご紹介します。

中小企業のM&Aで広く使われるのは、時価純資産に営業利益の数年分を加味する方法や、EBITDA(償却前営業利益)に一定の倍率を乗じる方法です。IT企業の場合、設備が少なく資産の大半が「人と技術」であるため、純資産よりも収益力・成長性が重視される傾向が明確です。特にSaaS事業では、現時点の利益が小さくても、経常的な収益(ARR)の規模と成長率に着目して、売上高を基準に評価が議論されることもあります。

ただし、同じ売上・利益規模でも、ストック型か受託型か、成長率や解約率はどうか、特定顧客への依存はないか、といった事業の質によって評価は大きく変動します。倍率の目安だけを頼りに期待値を固めてしまうと、交渉段階で目線のずれに苦しむことになりかねません。評価手法の全体像は「企業価値評価(バリュエーション)の3つの方法」で解説していますので、あわせてご参照ください。

SaaS事業で評価される代表的なKPI

SaaS事業の買い手は、財務諸表だけでなく事業KPIを重視します。代表的な指標は次のとおりです。

ARR / MRR(経常収益)

ARR(年間経常収益)・MRR(月間経常収益)は、サブスクリプション契約から毎年・毎月継続的に得られる収益で、SaaS評価の出発点となる指標です。単発の導入支援売上などを除いた「純粋な経常部分」がどれだけあるか、そしてその成長率が着目されます。

解約率(チャーンレート)

顧客数ベース・金額ベースの解約率は、収益の持続性を測る指標です。解約率が低いほど将来収益の予見性が高く、評価は上がりやすくなります。既存顧客の利用拡大(アップセル・クロスセル)が解約による減少を上回っている状態、いわゆるネガティブチャーンが実現できていれば、大きなアピール材料になります。

ユニットエコノミクス(LTV / CAC)

顧客一社から生涯に得られる利益(LTV)と顧客獲得コスト(CAC)のバランスは、「広告費をかければ利益的に成長できる構造か」を示します。LTVがCACを十分に上回っているか、CACを回収するまでの期間が長すぎないかが確認されます。

ストック売上比率・顧客構成

全売上に占めるストック型売上の比率が高いほど、収益の安定性は高く評価されます。また、特定の大口顧客に売上が集中していないか、解約リスクの高いセグメントに偏っていないかといった顧客構成も重要です。

これらのKPIは、日頃から正確に計測・記録されていること自体が価値になります。デューデリジェンスの際に数値の裏付けが取れないと、評価の前提が崩れてしまうためです。デューデリジェンスで確認される内容は「デューデリジェンス(DD)とは」をご覧ください。

受託開発・SESで評価されるポイント

SaaSに限らず、受託開発(SI)やSES(システムエンジニアリングサービス)の会社も、M&A市場では活発に取引されています。これらの業態で買い手が注目するのは、次のような点です。

  • エンジニアの人数・スキル構成・平均年齢と、直近の離職率
  • 顧客との取引の継続性(元請け比率、特定顧客への依存度)
  • 単価水準と稼働率、案件獲得のチャネル
  • 得意とする技術領域(クラウド、AI、セキュリティ等)の市場性
  • プロジェクト管理の体制と、不採算案件の有無

受託型の事業はストック型に比べて収益の予見性が低いとみなされがちですが、長年の継続取引や保守契約の積み上げがあれば、実質的なストック収益として評価されることもあります。自社の売上の中に「毎年ほぼ確実に繰り返される部分」がどれだけあるかを整理しておくことが、評価を高める第一歩です。

エンジニア組織こそが企業価値の源泉

IT企業のM&Aで買い手が最も恐れるのは、譲渡後にキーパーソンやエンジニアが離職してしまうことです。裏を返せば、経営者個人に依存せず、組織としてプロダクト開発・案件遂行が回る体制が整っている会社は、それだけで高く評価されます。具体的には、次のような点が確認されます。

  • 開発の中心人物(CTO・リードエンジニア)の在籍と継続意向
  • ソースコード・設計書・運用手順のドキュメント化の程度
  • 特定個人しか触れないシステム(属人化)の有無
  • 雇用条件・エンジニアの待遇と、譲渡後の処遇方針
  • 知的財産権の帰属(外注制作分の権利処理、OSSライセンスの管理)

とくに知的財産権の帰属は、IT企業のデューデリジェンスで問題になりやすい論点です。過去の受託契約や業務委託契約で著作権の帰属が曖昧なままになっていないか、早めに棚卸ししておくことをお勧めします。なお、契約・法務・税務の個別の取り扱いについては、弁護士・税理士等の専門家に必ずご確認ください。

まとめ|KPIを整えてから交渉のテーブルへ

IT企業・SaaS事業の売却では、ARR・解約率・ユニットエコノミクスといったKPI、そしてエンジニア組織の安定性が、財務数値と同じかそれ以上に評価を左右します。逆にいえば、これらを日頃から計測し、説明できる形に整えておくことで、同じ事業でも買い手の評価は大きく変わり得ます。売却を具体的に考える前の段階から、KPIの整備・ドキュメント化・権利関係の棚卸しを進めておくことが、将来の選択肢を広げることにつながります。

当社プラチナパートナーズは、成功報酬型のもと、IT企業・SaaS事業を含む中小企業のM&Aを初回相談から成約まで一気通貫でご支援しています。IT業界のM&A支援の詳細はIT・ソフトウェア業界のM&A支援ページを、概算の価値把握には企業価値算定シミュレーターをご活用ください。守秘義務を徹底のうえ対応いたしますので、どうぞお気軽にご相談ください。

よくあるご質問

A.受託型はストック型に比べて収益の予見性が低いとみなされがちですが、長年の継続取引や保守契約の積み上げがあれば、実質的なストック収益として評価されることもあります。まず、自社の売上のなかに「毎年ほぼ確実に繰り返される部分」がどれだけあるかを整理してください。あわせて、エンジニアの人数・スキル構成・平均年齢と直近の離職率、元請け比率と特定顧客への依存度、単価水準と稼働率、案件獲得のチャネル、不採算案件の有無を示せる形にすることが、評価を高める第一歩になります。
A.知的財産権の帰属は、IT企業のデューデリジェンスで問題になりやすい論点です。過去の受託契約や業務委託契約で著作権の帰属が曖昧なままになっていないか、外注制作分の権利処理がなされているか、OSSライセンスの管理ができているかは、いずれも確認されます。早めに棚卸ししておくことをお勧めします。曖昧な契約が見つかった場合、遡って覚書を交わすなどの対応が取れることもありますが、時間がかかります。契約・法務の個別の取り扱いについては、弁護士等の専門家に必ずご確認ください。
A.足りないことが多い業種です。SaaS事業の買い手は財務諸表だけでなく事業KPIを重視し、経常収益とその成長率、顧客数ベース・金額ベースの解約率、顧客獲得コストの回収期間、ストック売上比率と顧客構成を見ます。これらのKPIは、日頃から正確に計測・記録されていること自体が価値になります。デューデリジェンスの際に数値の裏付けが取れないと、評価の前提が崩れてしまうためです。読めない部分は保守的に見積もられますので、まずは単発の導入支援売上と純粋な経常部分を分ける整理から始めてください。
A.買い手が最も恐れるのは、譲渡後にキーパーソンやエンジニアが離職してしまうことです。そのため、開発の中心人物の在籍と継続意向は必ず確認されます。ただし、答えは「残るかどうか」だけではありません。ソースコード・設計書・運用手順のドキュメント化を進め、特定個人しか触れないシステムを減らしておけば、必要とされる関与の期間や深さは変わり得ます。ご自身が譲渡後どう関わりたいのか、どのくらいの期間なら可能なのかを早い段階で固めておくと、条件交渉が進めやすくなります。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら