M&Aの初回相談では、決算書を数期分拝見したうえで、おおよその金額の幅をお伝えすることがあります。これはいわゆる簡易査定であり、詳細な調査を経た正式な評価とは前提が異なります。両者の違いを知らないまま簡易な数字を受け取ると、後の交渉で「話が違う」という印象を持たれることになりかねません。本稿では、それぞれが何をしている作業なのか、なぜ金額が動くのかを整理します。
簡易査定とは、何をしている作業か
簡易査定は、限られた情報からおおよその幅を示す作業です。多くの場合、直近3期程度の決算書と、事業の概要についてのヒアリングをもとに行われます。
ここで行うのは、決算書に表れている数字を出発点として、標準的な調整を当てはめることです。オーナーの役員報酬を市場水準に置き直す、事業に関係の薄い経費を足し戻す、借入金と現預金から純有利子負債を計算する、といった作業です。
この段階では、資産の中身を一つずつ確かめることはできません。売掛金が実際に回収されているか、在庫が販売できる状態か、簿外の債務がないか。これらは資料と確認がなければ判断できないため、決算書に書かれているとおりであるという前提を置いて計算します。
したがって簡易査定の結果は、点ではなく幅で示されるのが自然です。「およそ何億円から何億円の範囲」という形になるのは、前提の不確かさを反映しているためです。
正式な評価では何が加わるのか
案件が進むと、より詳細な資料に基づく評価が行われます。ここで加わるのは、主に次のような作業です。
- 資産の実在性と回収可能性の確認(売掛金の年齢調べ、在庫の滞留状況、貸付金の相手先)
- 簿外債務・未計上債務の洗い出し(退職給付、未払残業、保証債務、係争)
- 非事業用資産の切り分け(遊休不動産、事業と無関係の有価証券、保険)
- 実質利益の精査(役員報酬、地代家賃、私的な経費、関係会社との取引条件)
- 契約関係の確認(主要取引先との契約、賃貸借、リース、許認可)
- 将来計画の検討(設備投資の必要性、人員計画、受注残の状況)
さらに買い手が本格的に検討する段階では、デューデリジェンスとして外部の専門家による調査が入ります。ここで発見された事項は、価格や契約条件に反映されます。調査の全体像は「デューデリジェンス(DD)とは|調査項目と売り手の準備」をご覧ください。
なぜ金額が動くのか|よくある四つの要因
簡易査定と精査後の評価で金額が動く理由は、おおむね次の四つに分類できます。
一つ目は、資産の実態です。決算書上は資産として計上されていても、回収の見込みが乏しい売掛金や、販売の見込みが乏しい在庫は、実態としての価値が乏しくなります。この場合、評価は下がる方向に動きます。
二つ目は、簿外の負債です。退職金規程はあるが引当金を計上していない、未払の残業代がある、個人保証や係争がある。こうした事項が見つかれば、その見込み額が差し引かれます。
三つ目は、逆に上振れする要因です。簿価が低いまま保有している不動産、含み益のある有価証券、解約返戻金のある生命保険など、決算書の数字より実態が厚い項目が見つかることもあります。この場合は評価が上がる方向に動きます。
四つ目は、事業の見え方です。決算書には表れない受注残、長期の継続契約、許認可、有資格者の在籍といった要素は、精査の過程で初めて買い手に伝わります。これらは価格の交渉材料になります。詳しくは「受注残と継続契約は価値になるか|将来の売上をどう説明するか」をご覧ください。
簡易査定の数字を、どう受け止めるか
ここまでを踏まえると、簡易査定の数字との付き合い方が見えてきます。
まず、意思決定の出発点として使うのは適切です。譲渡を検討すべき水準なのか、まだ準備に時間をかけるべきなのか。その判断材料としては十分に役立ちます。
一方で、この数字を前提に資金計画を固めてしまうのは避けたほうがよいと考えます。退職後の生活設計や、次の事業への投資計画を簡易査定の金額で組み立ててしまうと、精査後の調整に対応しづらくなります。
また、複数の会社に簡易査定を依頼された場合、提示される金額に差が出ることがあります。これは調整の置き方や前提の違いによるもので、高い金額を示した先が有利な条件を実現できるとは限りません。何を前提にその数字になったのかを尋ね、説明の中身で判断されることをおすすめします。
当社では、簡易な段階でも前提を明示してお伝えするようにしています。数字だけを示して期待を持たせることは、結果として経営者様の判断を誤らせると考えているためです。
三つ目の数字|買い手の社内評価
もう一つ知っておいていただきたいのが、買い手が社内で行う評価の存在です。これは売り手側の算定とは別に行われ、内容が開示されるとは限りません。
買い手は、自社の資金調達条件、投資の判断基準、期待する回収期間、買収後に見込めるシナジーなどを織り込んで、自社にとっての上限額を決めます。この数字は買い手ごとに異なるため、同じ会社に対して複数の買い手から異なる金額が提示されることになります。
言い換えれば、会社の価値は一つに定まるものではなく、誰が買うかによって変わります。売り手側の評価は「このあたりが妥当だろう」という目安であって、市場で決まる金額とは別のものです。
だからこそ、複数の買い手候補に検討していただく意味があります。価格交渉の進め方は「M&Aの価格交渉|買い手との条件すり合わせと譲れない線の決め方」で整理しています。
まとめ|前提を確かめる習慣を
簡易査定と正式な評価は、目的が違う作業です。前者は検討を始めるための目安であり、後者は交渉と契約のための根拠です。どちらが正しいという話ではありません。
経営者様にお持ちいただきたいのは、金額を聞いたときに「それは何を前提にした数字ですか」と尋ねる習慣です。役員報酬をいくらに置き直したのか。純有利子負債をどう計算したのか。非事業用資産をどう扱ったのか。これらが説明されれば、数字の意味が変わります。
また、精査で下がる要因の多くは、事前に把握して整理しておけるものです。滞留債権や不良在庫の処理、簿外債務の洗い出し、私的な経費の整理は、ご自身で先に進めておくことができます。「売却前の自社チェックリスト|買い手に見られる観点を自分で点検する」を出発点にしていただければと思います。
当社は相談料・着手金・月額報酬をいただいておりません。数字の幅とその前提をご説明するところまで、費用の負担なくお聞きいただけます。