訪問介護、通所介護(デイサービス)、有料老人ホーム、グループホーム——介護業界では近年、「事業を第三者に託したい」という経営者様のお悩みが目に見えて増えているといわれます。理由の多くは、事業がうまくいっていないからではありません。むしろ「利用者様は集まっているのに、職員が採用できず受け入れを絞らざるを得ない」「制度改定のたびに収支の前提が変わり、この先の投資判断が自分の代では下しにくい」という、事業が続いているからこその悩みです。本稿では、介護事業のM&Aを検討するにあたって最初に押さえておきたい業界の構造、指定事業者としての地位がスキームによってどう扱われるのか、そして買い手が何を見て事業の価値を判断するのかを、順を追って整理します。
なぜ介護事業でM&Aが選ばれるのか|「人」と「制度」という二つの逆風
介護事業の経営は、他の多くの業種と決定的に違う点があります。売上の大部分が介護報酬という公定価格で決まり、サービスの提供量が有資格職員の頭数によって物理的に上限を持つ、という点です。値上げによって収益を改善することも、人手を増やさずに売上を伸ばすことも、原則としてできません。したがって経営の巧拙は「必要な人員をどれだけ安定的に確保できるか」と「制度改定にどれだけ機敏に適応できるか」にほぼ集約されていきます。
この二つが、いずれも中小規模の事業者にとって年々重くなっています。介護職員の採用競争は全産業のなかでも厳しい部類にあり、募集広告を出しても応募が集まらない、採用できても定着に至らない、という声を各地で伺います。処遇改善の加算制度は整備されてきたものの、その申請と実績報告には事務負担が伴い、専任の管理部門を持たない事業者ほど対応が経営者個人に集中します。
結果として、多くの中小介護事業者では「経営者が管理者を兼ね、現場のシフトの穴も埋め、加算の書類も作る」という属人的な運営が常態化します。事業としては回っていても、経営者が退けば止まる。この構造こそが、親族内承継のハードルを高くし、第三者への承継、すなわちM&Aという選択肢を現実的なものにしています。帝国データバンクの2025年の調査では、国内企業の後継者不在率は50.1%とされており、後継者の不在は介護業界に限らず日本企業全体の課題ですが、人員配置基準という法定要件を抱える介護事業では、「誰に引き継ぐか」が事業継続そのものに直結する分だけ、切実さが増します。
一方、買い手側の事情も見ておく必要があります。介護事業を運営する法人にとって、新規開設は物件確保・行政協議・職員採用のすべてを一から積み上げる長い道のりです。既存事業の取得であれば、稼働している利用者基盤と、そこで働く職員、そして地域のケアマネジャーとの関係を、まとめて引き継ぐことができます。売り手が抱える「人が採れない」という悩みは、採用力のあるグループの傘下に入ることで軽減され得るものでもあり、この点で売り手と買い手の関心は噛み合いやすい構造にあります。
介護報酬改定が経営に与える影響と、M&Aのタイミング
介護報酬は原則として3年に一度改定されます。改定のたびに基本報酬の水準や加算の要件が見直され、事業所によっては収支の前提が大きく動きます。近年の改定は、処遇改善の一本化、科学的介護やLIFEへの対応、感染症・災害への業務継続計画(BCP)の策定義務化など、報酬の増減にとどまらず「体制整備を伴う要求」が増えている点に特徴があります。
ここで重要なのは、こうした要求が事業所の規模に対して中立ではないという点です。BCPの策定も、記録システムの導入も、加算要件を満たす研修体制の構築も、一定の固定費と管理工数を必要とします。同じ手間を1事業所で負担するのか、20事業所で分担するのかでは、事業所あたりのコストがまったく異なります。制度改定が繰り返されるほど、規模を持つ法人が相対的に有利になり、それが業界再編を静かに押し進めている、という構図です。
M&Aの検討時期についてよくいただく質問が、「改定の前と後、どちらがよいか」というものです。一概には言えませんが、実務上は次のように考えます。改定の内容が固まって間もない時期は、買い手側も自社への影響を織り込みきれておらず、評価が慎重になることがあります。反対に、改定後の実績が数か月分でも積み上がり、「この改定を受けても収益が維持できている」ことを数字で示せる状態は、交渉上わかりやすい強みになります。いずれにせよ、稼働率が落ちてから、あるいは主要な職員が退職してから動き始めるのでは選択肢が狭まります。検討の開始は早いに越したことはありません。
指定事業者の地位はどう引き継がれるか|株式譲渡と事業譲渡
介護事業のM&Aで、他業種以上に丁寧な確認を要するのが「指定」の取り扱いです。介護保険サービスを提供するには、サービス種別ごとに都道府県または市町村から指定介護事業者としての指定を受けている必要があります。この指定が承継されるかどうかは、選ぶスキームによって考え方が大きく変わります。
株式譲渡の場合
株式譲渡は、事業を運営する法人の株式を買い手に譲渡する手法です。事業の主体である法人格そのものは変わらないため、法人が受けている指定は一般に、そのまま存続すると考えられています。事業を止めることなく経営権のみを移すことができるため、複数の事業所を運営する法人の譲渡では、株式譲渡が選択されることが多くなります。
ただし「何も届け出なくてよい」という意味ではありません。一般に、役員の変更や事業所の管理者の変更などについては、所定の期間内に変更届出を行うことが求められるとされています。届出の対象・様式・期限は自治体によって運用が異なるため、スケジュールを組む段階で所管行政庁に確認しておくことが欠かせません。
事業譲渡の場合
事業譲渡は、事業所の設備・備品・利用者との契約・職員との雇用関係などを個別に移転する手法です。この場合、指定は譲渡人に紐づいたものであるため、一般に譲受側で新たに指定を受け直す必要が生じるとされています。指定の効力が生じる日と事業譲渡の実行日がずれると、介護報酬を請求できない空白期間が発生しかねません。
もっとも、事業所の廃止と新規指定の間に切れ目が出ないよう、事前の協議を前提とした手続きが用意されている自治体もあります。また、法人が複数事業を営んでおり一部の事業のみを譲渡したい場合や、譲渡対象に含めたくない債務がある場合には、事業譲渡が適した手法となります。利用者様との契約や職員の雇用契約は個別の同意や再締結を要するのが原則であるため、実行前の丁寧な説明と段取りが必要です。
上記はあくまで一般的な整理です。指定の承継可否、必要な届出、事前協議の要否と時期は、サービス種別・自治体の運用・個別事情によって異なります。実行にあたっては、必ず所管の都道府県または市町村の介護保険担当部署にご確認ください。株式譲渡と事業譲渡の一般的な違いは「株式譲渡と事業譲渡の違い」でも解説しています。
買い手は介護事業のどこを見るのか|稼働率と利用者構成
介護事業の価値評価では、決算書の利益額と同じかそれ以上に、運営の実態を示す指標が重視されます。買い手が確認する代表的な項目を整理すると、次のようになります。
| 確認される項目 | 買い手が見ているポイント |
|---|---|
| 稼働率・利用率 | 定員に対する充足の水準と、その推移。季節変動を均した実力値を見ています。 |
| 要介護度の構成 | 利用者様の要介護度の分布は、収入単価と必要な人員配置の双方に影響します。 |
| 人員配置と有資格者 | 基準を満たす体制が余裕をもって組めているか。管理者・サービス提供責任者の在籍状況。 |
| 加算の取得状況 | 取得済みの加算と、要件を満たせば取れるはずの未取得加算。後者は改善余地と評価されます。 |
| 紹介経路 | 居宅介護支援事業所や医療機関との関係が、特定の一者に偏っていないか。 |
| 実地指導・監査の履歴 | 過去の指摘事項と是正状況。返還リスクの有無を確認しています。 |
とりわけ稼働率は、介護事業の収益力を最も端的に表す指標です。定員に対する稼働が高い水準で安定している事業所は、地域での評価と紹介経路が確立していることの裏返しでもあり、評価が高くなりやすい傾向があります。反対に、稼働率が高くても職員の欠員によって受け入れを制限している場合は、「採用が改善すればさらに伸びる余地がある」と前向きに見られることもあれば、「引き継いだ後も人が採れないのではないか」と慎重に見られることもあります。ここをどう説明するかは、交渉の重要な論点になります。
また、利用者様の要介護度の構成は、単に「重度が多いほうがよい」という話ではありません。重度の方が多ければ単価は上がりますが、その分手厚い人員配置が必要になります。買い手が見ているのは、収入単価と人員コストの釣り合いが取れた運営ができているか、という点です。譲渡価格の一般的な考え方については「会社売却の相場の考え方」も、あわせてご参照ください。
譲渡前に整えておきたい準備
介護事業の譲渡は、デューデリジェンス(買収監査)で確認される範囲が比較的広い分野です。準備の有無が交渉の進み方を左右しますので、次の点は早めに着手されることをお勧めします。
- 事業所別の損益を整理し、本部費用の配賦を含めて説明できる状態にしておく
- 人員配置基準の充足状況を、シフト実績と資格証で裏づけられるようにしておく
- 加算の届出書類と算定根拠を揃え、取得の経緯を整理しておく
- 実地指導での指摘事項と是正の記録を確認しておく
- 労働時間の管理、夜勤・宿直の取り扱い、社会保険の加入状況を点検しておく
- 賃貸物件の契約内容、とりわけ経営権の異動に関する条項を確認しておく
介護事業のデューデリジェンスで論点になりやすいのが、労務関連です。夜勤や訪問の移動時間の取り扱い、有給休暇の付与状況、常勤換算の算定など、意図せず整理が不十分になっている項目が見つかることは珍しくありません。これらは事前に把握して自ら開示すれば「きちんと管理している会社」という評価につながりますが、調査で発見されると価格の減額や補償条項の交渉材料になります。順序が違うだけで、結果は大きく変わります。
そして、情報管理です。介護は地域のなかで人がつながる業界であり、譲渡の噂は職員にもケアマネジャーにも急速に伝わります。職員の動揺は稼働率に直結し、その稼働率が価値評価の中心にあることを考えれば、秘密保持の徹底は価格を守る行為そのものです。従業員の方々へお伝えするタイミングと伝え方については、「会社売却を従業員にいつ・どう伝えるか」で詳しく解説しています。
まとめ|事業が回っているうちに、次の担い手を考える
介護事業のM&Aは、業績不振の出口ではありません。人員の確保という構造的な制約と、制度改定への継続的な対応という二つの負荷を、規模のある法人と分かち合うための選択肢です。そして、その選択肢が最も広く開かれているのは、稼働率が保たれ、職員が定着し、加算が適切に算定されている——つまり事業がうまく回っている時期です。
経営者様が現場に立ち続けることで成り立っている事業ほど、その方が動けなくなった瞬間に価値が失われます。「まだ元気なうちは自分でやる」というお気持ちはよく理解できますが、選択肢を持てるのは元気なうちだけです。売却を決断する前の、情報収集の段階からのご相談で構いません。
当社プラチナパートナーズは、成功報酬型のもと、介護・医療分野を含む中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫でご支援しています。守秘義務を徹底のうえ対応いたしますので、どうぞお気軽にご相談ください。