個人事業主が事業を手放すとき、「会社を売る」のとは手続きがまったく違います。株式がないため株式譲渡という方法が使えず、事業を構成する資産・契約・人を一つずつ移していくことになります。本稿では、個人事業ならではの論点を整理します。法人の事業譲渡との比較は「株式譲渡と事業譲渡の違い」もご覧ください。
選べる手法は、実質的に一つ
法人であれば、株式譲渡と事業譲渡のどちらかを選べます。株式譲渡なら法人格がそのまま残るので、契約も許認可も従業員の雇用も原則として継続します。
ところが個人事業には株式がありません。したがって事業譲渡、つまり事業を構成するものを個別に移す方法しか取れません。屋号、設備、在庫、取引先との契約、賃貸借、従業員——一つずつ、相手方の同意を得ながら移していきます。
手間はかかりますが、移すものを選べるという利点もあります。引き継いでほしくない資産や、終わらせたい契約を除いて譲ることができます。
屋号と、のれんの扱い
長く続けてきた事業ほど、屋号そのものに価値があります。地域で知られた店名、取引先が認識している名前。これを引き継ぐかどうかは、価格にも関わる論点です。
屋号は登記されているものではないため、譲渡契約の中で「屋号を使用する権利を譲る」と定める形になります。商標登録をしている場合は、商標権の移転登録が別途必要です。
なお、屋号を引き継ぐ場合、前の事業主の債務についても責任を問われる可能性があります(商法・会社法の商号続用に関する定め)。買い手の側では、引き継がない債務の範囲を明確にし、必要な手当てをしておく必要があります。法律上の扱いは事案により異なりますので、弁護士にご確認ください。
許認可は、原則として取り直し
飲食店営業許可、建設業許可、古物商許可、運送事業の許可——これらは事業主個人に与えられているため、譲渡では引き継げないのが原則です。買い手は自分の名義で新たに取得することになります。
ここが実務上いちばん大きな制約になります。取得に数週間から数か月かかる許認可であれば、その期間は営業できません。引き渡しの日程は、許認可が下りる見込みから逆算して決める必要があります。
一部には、地位の承継が認められる制度が設けられているものもあります。事業に必要な許認可を一覧にして、それぞれ承継の可否を所管の行政庁に確認してください。確認は早いほど日程を組みやすくなります(「M&Aと許認可」)。
従業員と、契約の移し方
個人事業の従業員は、事業主個人と雇用契約を結んでいます。事業を譲っても契約が自動的に移ることはありません。
実務としては、いったん現在の事業主のもとで退職し、買い手のもとで新たに雇用される形になります。本人の同意が必要です。勤続年数の通算、有給休暇の残日数、退職金の扱いをどうするかは、買い手と取り決めたうえで、従業員に説明します。
取引先との契約、賃貸借契約、リース契約も同様に、相手方の同意を得て名義を変更するか、買い手が新たに契約し直す必要があります。とくに店舗や事務所の賃貸借は、貸主の承諾が得られなければ事業そのものが続けられません。早い段階で見通しを立ててください。
従業員に伝える時期は慎重に設計してください。相手が決まらないうちに話が漏れると、先に辞めてしまうことがあります。買い手にとって人材が目的であれば、それだけで取引が成立しなくなります。開示の順序は「会社売却を従業員にいつ・どう伝えるか」の考え方が個人事業にも当てはまります。
税務の扱い|所得区分が分かれる
個人事業の譲渡では、譲り渡す資産の種類によって所得の区分が分かれます。
| 譲渡するもの | 所得の区分(一般的な扱い) |
|---|---|
| 棚卸資産(商品・在庫) | 事業所得 |
| 機械・車両などの事業用資産 | 譲渡所得 |
| 土地・建物 | 譲渡所得(分離課税) |
| 営業権(のれん) | 譲渡所得等 |
法人の株式譲渡であれば一律20.315%の申告分離課税ですが、個人事業の譲渡は区分が分かれ、総合課税の対象になる部分もあります。手取りの見通しが立てにくいため、契約の前に税理士と試算しておいてください。
あわせて、譲渡した資産のうち課税資産に対応する部分には消費税がかかり得ます。価格を税抜で合意したのか税込なのかは、契約書に明記してください。本稿は一般的な仕組みのご紹介であり、適用関係は個別の事情によって異なります。
まとめ|移すものを、一覧にすることから
要点を整理します。
- 個人事業は株式がないため、事業譲渡しか取れない。移すものを一つずつ引き継ぐ
- 屋号は契約で移す。商号続用による債務の責任に注意
- 許認可は原則として買い手が取り直す。日程はここから逆算する
- 従業員は退職・再雇用の形。本人の同意と条件の取り決めが要る
- 税務は所得区分が分かれ、総合課税になる部分もある
最初にやるべきは、移すものを一覧にすることです。資産、契約、許認可、人。一覧にすれば、何が難所かが見えます。当社は相談料・着手金・月額報酬0円でご相談を承っています。なお、成功報酬には最低報酬額(2,000万円・税別)がありますので、規模によっては他の進め方をおすすめすることもあります(「小規模案件の費用をどう考えるか」)。