M&Aの後、買い手側から「人事制度を早く揃えたい」という要望が出ることがあります。グループとして一体感を持たせたい、評価がばらばらでは管理しにくい、という理由です。しかし実務では、評価制度の一本化は統合の初期に手を付けると失敗しやすい領域のひとつです。本稿では、急いだ場合に何が起きるのか、その手前で揃えるべきものは何か、そしてどの時期にどう着手すべきかを整理します。制度統合の全体像は「人事制度の統合|給与・評価・就業規則をどう揃えるか」もあわせてご覧ください。
評価制度は、その会社の歴史の結晶である
評価制度は、単なる査定の仕組みではありません。その会社が何を大事にしてきたか——技能の高さか、勤続の長さか、売上か、顧客からの信頼か——が形になったものです。したがって、制度を変えることは、何を評価する会社なのかを変えることを意味します。
買収直後の従業員は、自分の立場がどうなるかを最も気にしています。その時期に評価制度が変わると、「これまでの自分の働きは認められないのか」という受け止め方が生じます。たとえ新しい制度のほうが客観的に合理的であっても、この心理的な反応は避けられません。
加えて、買収直後の買い手は、その会社で誰がどのように貢献しているかを十分に把握できていません。数字に表れない働き——後輩の指導、取引先との関係維持、現場の段取り——を評価から落とすと、組織を支えてきた人ほど評価が下がるという結果になりかねません。
制度を変えるには、まず実態を知る必要があります。その把握には、最低でも一年程度の観察が要ります。
急いだ場合に起きること
実務でよく見られる経過を整理します。
- 評価が下がる人が必ず出る——基準が変われば相対的な位置も変わります
- 説明できない——新しい基準で評価した理由を、買い手側の管理職が具体的に語れません
- 評価される側が納得しない——自分を知らない人が決めた、という受け止めになります
- 離職につながる——特に、旧制度で高く評価されていた層が動きます
三つ目と四つ目の連鎖が最も深刻です。評価制度の変更は、報酬の変更を伴わなくても、本人にとっては会社からの位置づけの変更として受け取られます。旧制度で評価されてきた中堅層は、多くの場合、業務の要になっています。この層の離職は、事業の継続に直接影響します。
また、賃金に連動する制度を変更する場合、不利益変更に該当しないかという法的な論点も生じます。手順を誤ると、後に紛争の原因になります。
評価制度より先に揃えるべきもの
制度そのものを統一しなくても、管理上の課題の多くは解消できます。先に手を付けるべきなのは、制度ではなく運用の可視化です。
| 先に揃えるもの | 内容 |
|---|---|
| 評価の時期 | 評価と昇給・賞与の実施時期を把握し、グループの事業年度と整合させる |
| 評価の記録 | 評価の結果と理由が書面で残る形にする(口頭のみの運用を改める) |
| 人件費の把握 | 等級・職位ごとの人件費が集計できる状態にする |
| 面談の実施 | 評価の結果を本人に伝える面談を定着させる |
| 法令上の整備 | 最低賃金、割増賃金の計算、労働時間の管理が適正か確認する |
このうち、最後の項目だけは急ぐべき領域です。法令上の問題があれば、制度の巧拙以前に是正が必要です。デューデリジェンスで論点が挙がっていれば、優先して着手してください。
他の項目は、制度の中身に手を触れずに実行できます。そして、これらが整うだけで、買い手が必要とする管理情報はおおむね得られます。「制度を揃えたい」という要望の実体は、多くの場合「実態が見えない」という不安です。可視化でその不安が解消されるなら、制度の変更は急ぐ必要がありません。
いつ、どう着手するか
制度の統一に着手する目安は、次の条件が揃ったときです。
- 買い手側が、譲り受けた会社の業務と人材の実態を把握できている
- 統合の必須タスクが片付き、現場に余力がある
- 譲り受けた会社側の幹部が、制度づくりに参加できる状態にある
- 変更の目的を、現場に対して具体的な言葉で説明できる
着手の手順としては、いきなり新制度を適用するのではなく、並行運用の期間を設ける方法が実務的です。新しい基準でも評価してみて、旧制度との差を確認する。差が大きく出る人については、その理由を検証します。多くの場合、そこで制度の側の調整点が見つかります。
また、制度づくりには譲り受けた会社の幹部に必ず参加してもらってください。買い手だけで作った制度は、現場の仕事の実態を反映できず、運用段階で機能しません。参加の過程自体が、制度への納得を作ります。
なお、統一が唯一の正解ではありません。事業内容や職種が大きく異なる場合、制度を分けたまま運用する判断も十分にあり得ます。どこまで揃えるかの考え方は「統合方針の決め方」で扱っています。
移行期の配慮|不利益をどう扱うか
新制度への移行で処遇が下がる人が出る場合、その扱いを設計する必要があります。実務でとられる方法としては、経過措置として一定期間、従来の水準を保障する形が一般的です。
期間の設定や補償の方法は、会社の状況によって異なります。重要なのは、個別の交渉ではなく制度として定めることです。個別対応にすると、対象者ごとに条件が異なり、後から不公平感が生じます。
また、移行の説明は管理職を通じて行ってください。人事部門からの一斉通知だけでは、本人の疑問に答えられません。管理職が制度の趣旨を理解し、自分の言葉で説明できる状態を作ることが前提になります。そのための説明会や研修の時間を、移行の計画に織り込んでおいてください。
労働条件の不利益変更に該当する場合、就業規則の変更手続きや個別の同意の要否など、法令上の要請を満たす必要があります。手順については必ず専門家に確認してください。
売り手として、譲渡前にできること
譲渡を検討している会社の側でも、人事に関して準備できることがあります。
第一に、評価と処遇の根拠を記録に残しておくことです。「なぜこの人の給与がこの水準なのか」が説明できる状態になっていれば、買い手も安易な変更をしません。逆に、根拠が不明確な処遇が多いと、統合の過程で見直しの対象になりやすくなります。
第二に、法令上の整備を先に済ませておくことです。労働時間の管理、割増賃金の計算、社会保険の加入。これらに不備があると、デューデリジェンスで論点となり、価格や条件の交渉に影響します。是正には時間がかかるため、譲渡を意識した段階で着手する価値があります。
第三に、買い手に対して人事の考え方を確認することです。譲渡の交渉の場で、処遇や評価についてどの程度の期間は現状を維持する想定かを尋ねておけば、従業員への説明に使えます。確定した約束を求めるのは難しくても、考え方を聞くことはできます。
当社では、譲渡のご相談を受けた段階から、こうした人事・労務の整理を含めて準備を進めることを基本にしています。