M&Aの後、しばらくして最初の退職の申し出が出る——多くの案件で経験する場面です。買い手にとっては動揺する出来事ですが、より重要なのは、その退職が社内にどう受け止められるかです。一人目の退職は、残る従業員にとって「やはり辞めたほうがよいのか」という問いを生みます。初動の対応を誤ると、退職が連鎖します。本稿では、退職の申し出があったときに確認すべきこと、引き継ぎの確保、社内への影響の抑え方を整理します。定着のための取り組みは「M&A後に従業員が辞めないために」もご参照ください。
まず、理由を切り分ける
退職の申し出を受けたら、引き留めるかどうかを考える前に、理由を確認します。実務では、次の四つに切り分けると対応が具体的になります。
- M&A以前から決まっていたこと——家庭の事情、進学、独立の準備など。譲渡とは無関係
- M&Aをきっかけとした不安——処遇や働き方の見通しが立たない
- 統合の進め方への不満——具体的な施策や、扱われ方に対する反発
- 以前からの不満が、機会を得て表面化した——処遇や人間関係の問題が背景にある
一つ目であれば、組織的な対処は不要です。ただし、社内には「M&Aが原因で辞めた」と受け取られる可能性があるため、本人の了解を得たうえで、事情を簡潔に共有できるかを確認してください。
二つ目であれば、見通しを具体的に示すことで解決することがあります。「処遇は当面変わらない」と口頭で伝えるだけでなく、いつ何が決まるのかまで示してください。
三つ目と四つ目は、その人個人の問題ではなく、組織全体に同じ要因が存在している可能性が高い類型です。この場合、一人を引き留めても根本は解決しません。
理由を聞き出すのは簡単ではない
退職を申し出る従業員が、本当の理由を述べるとは限りません。円満に去りたいという配慮から、当たり障りのない理由が語られることがほとんどです。
聞き取りの際に有効なのは、退職の是非を離れて話す姿勢を示すことです。「引き留めるためではなく、会社をよくするために教えてほしい」と前置きすると、話が出やすくなります。逆に、最初から引き留めの条件を提示すると、本人は交渉の場と受け取り、本音を語らなくなります。
担当者の選定も重要です。統合を推進している買い手側の担当者が聞くと、統合への不満は語られません。譲り受けた会社の側で信頼されている管理職に聞いてもらうほうが、実態が分かることがあります。
また、退職日が決まった後の面談のほうが率直な話が出ることもあります。去ることが確定しているため、遠慮が減るためです。最終出社の前に、改めて話す機会を設けてください。
引き継ぎを最優先に確保する
退職が確定したら、対応の重心は引き留めから引き継ぎに移ります。ここで動きが遅れると、業務に直接の支障が出ます。
確認すべきは、その人が担っていた業務のうち他に代替できないものです。取引先の窓口、特定の機械の操作、特殊な手続き、システムの管理者権限。一人で管理系を担っていた方であれば、支払や給与計算の手順が該当します。
引き継ぎの計画は、残りの在職期間から逆算して作ります。文書化するもの、立ち会いで覚えるもの、同行して紹介するものを分け、それぞれ日程を入れてください。在職期間が短い場合は、優先順位をつけ、止まると事業に影響するものから着手します。
あわせて、退職に伴う実務も確認します。貸与品の返却、アカウントの停止、権限の解除、社会保険の手続き。特にシステムの権限は、退職後も有効なまま残ることがあり、情報管理上の問題になります。「ITアカウントと権限の引き継ぎ」も参考にしてください。
社内への伝え方が、連鎖を左右する
退職の情報は、公式に伝える前に社内に広まります。したがって、伝えるかどうかではなく、どう伝えるかが問題になります。
避けたいのは、何も説明しないまま席がなくなる形です。残る従業員は理由を推測し、多くの場合、最も不安を煽る解釈が広がります。「M&Aのせいで辞めさせられた」「これから人が減らされる」といった憶測です。
実務的な対応としては、部門の朝礼などの場で、退職の事実と、業務の引き継ぎがどうなるかを簡潔に伝えることです。理由については、本人の了解を得た範囲でのみ触れます。同時に、人員の補充の方針を示してください。補充するのか、業務を分担するのか。ここが不明だと、残る人は「自分の仕事が増えるのか」という新たな不安を抱えます。
もうひとつ、退職者を否定的に語らないことが重要です。去る人の批判をすると、残る従業員は「自分も辞めればこう言われる」と理解します。その組織では、以後、退職の相談は事前に上がってこなくなります。
連鎖を防ぐための点検
一人目の退職は、組織の状態を確認する機会でもあります。次の点検を行ってください。
| 点検項目 | 確認すること |
|---|---|
| 同じ理由を持つ人はいるか | 退職理由が統合の進め方にある場合、同じ不満を抱える層の有無 |
| 特定の部門に偏っていないか | 部門固有の問題(管理職との関係、業務負荷)の可能性 |
| 業務が偏って残っていないか | 退職者の業務が特定の人に集中し、その人が次に疲弊しないか |
| キーマンの状況 | 要となる人材との面談を前倒しで実施する |
特に三つ目は見落とされやすい項目です。退職者の業務を残った一人に寄せると、その人が次の退職者になります。人手が足りない状況では避けにくい判断ですが、一時的な措置であることと、いつまでかを明示してください。
キーマンとの面談は、こうした局面でこそ有効です。動揺している時期に会社側から声がかかることは、それ自体が意味を持ちます。面談の設計は「キーマンとの個別面談の設計」で扱っています。
どこまでが想定内か
最後に、統合の期間の退職をどう評価するかについて述べます。結論から言えば、一定の退職が生じること自体は避けられません。会社の所有者が変わるという出来事は、従業員に自分のキャリアを考え直す機会を与えます。
重要なのは、退職の数そのものより、その内容です。確認したいのは次の点です。事業の継続に不可欠な人が抜けていないか。特定の部門に集中していないか。退職の理由が統合の進め方にある割合が高くないか。そして、退職の申し出が事前に相談として上がってくるか、突然の通告になっているか。
最後の項目は、組織の状態を示す有力な手がかりです。相談として上がってくるうちは、対話の回路が生きています。突然の通告が続く場合、現場と経営の間で情報が流れていない状態を疑ってください。
なお、売り手の立場からも、譲渡の前に人材の状況を整理しておくことには意味があります。属人化している業務を減らし、複数の人が担える状態にしておけば、譲渡後に誰かが抜けたときの影響を小さくできます。これは企業価値の観点からも評価される要素です。