本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。企業価値の算定ができることと、それを経営者に分かってもらえることは、まったく別の技能です。実務では後者のほうが難しく、しかも後者ができないと、算定結果は「よく分からない数字」として受け取られ、その後の交渉すべてが不安定になります。ここでは専門用語の翻訳辞書、説明の順番、幅の示し方、質問への返し方を型にします。算定そのものの手順は「簡易企業価値算定の実務」、渡す資料の設計は「簡易評価レポートの作り方」を参照してください。
なぜ伝わらないのか|算定する仕事と、説明する仕事は別物
新人の説明が伝わらない原因は、知識不足ではなく順番の誤りにあります。典型的な失敗は、こちらが理解した順(定義→計算式→結果)で話してしまうことです。経営者が知りたい順は逆で、結論の幅→そう見る理由→前提が変わるとどう動くかです。
もう一つの原因は、用語を訳さずに使うことです。EBITDA、ネットデット、マルチプル、のれん、EV。これらは業界内では便利な略記ですが、初めて聞く人には内容がありません。用語を使うこと自体は悪くありませんが、必ず一度は日本語で言い換えてから使うのが原則です。「本業の稼ぐ力、いわゆるEBITDAですが——」と一度置き換えれば、その後は略記で通じます。
そして最も大事な前提として、経営者は自分の会社の価値を「これまでの努力の評価」として聞きます。数字が想定より低いとき、それは計算結果ではなく人生の評価として響きます。だから説明の場では、正確さと同じ重みで、言い方を設計しなければなりません。
翻訳辞書|専門用語を経営者の言葉に置き換える
私が新人に配っている翻訳の対応表を、そのまま載せます。丸暗記ではなく、自分の言葉になるまで声に出して練習してください。
| 用語 | 言い換え | 補足の一言 |
|---|---|---|
| EBITDA | 本業から毎年生み出す現金の力 | 営業利益に減価償却費を足し戻したもの。設備の重い会社と軽い会社を同じ土俵で比べるため |
| マルチプル(倍率) | 「何年分の稼ぐ力として評価するか」の目安 | 業種や規模、買い手の考え方で変わる。決まった相場があるわけではない |
| 純有利子負債(ネットデット) | 借入から手元の余剰現金を引いた、実質の借金 | これが多いと、同じ稼ぐ力でも株主に届く金額は小さくなる |
| のれん | 帳簿に載っていない、目に見えない価値 | 取引先との関係、技術、人材、許認可など。買い手ごとに評価が違う |
| 時価純資産 | 今すべてを売って借金を返したら手元に残る額 | 土地・保険・在庫・退職金債務などを時価に直して計算する |
| DCF | これから稼ぐ現金を、今のお金に換算して足し合わせる方法 | 将来計画の前提で結果が大きく動くため、幅で見る |
| 運転資本 | 商売を回すために常に寝ている資金 | 売掛と在庫から買掛を引いたもの。季節で動くので基準を決めて調整する |
| 株式価値と事業価値 | 会社そのものの値段と、オーナーの手取りの元になる値段 | 事業価値から実質の借金を引いたものが株式価値、と一往復で説明する |
翻訳のコツは、数式で説明しないことです。「営業利益+減価償却費」と書くより、「機械の目減り分を戻して、本業の現金の力を見る」と言うほうが速く伝わります。数式は資料に書いておき、口では意味だけを話してください。
説明する順番|一枚で話すときの流れ
説明の場では、資料を一枚だけ使います。何枚も配ると、経営者は数字の海で迷子になります。話す順番は次の五段です。
- 1. 幅の提示:「今お預かりした3期分から見ると、この範囲が目線になります」。最初に結論の幅を出す
- 2. 見方の説明:「見方は二つあります。今すべてを清算したらいくら残るか(時価純資産)と、これから稼ぐ力をどう評価するか(のれん相当)です」
- 3. 数字の作り方:調整した項目を具体的に挙げる。役員報酬、保険、私的経費、遊休資産など
- 4. 動く要因:「この前提が変わると、この方向に動きます」。借入、設備投資、取引先集中、キーマン依存
- 5. 最終的に決まる場所:「最後は買い手候補との交渉で決まります。算定は交渉の出発点です」
この五段のうち、新人が飛ばしがちなのは3と5です。3を飛ばすと「勝手に数字を作られた」と受け取られ、5を飛ばすと算定額が約束された金額のように誤解されます。特に5は、後の価格交渉での摩擦を減らすために必ず言い切ってください。期待とのずれが大きいときの扱いは「価格の説明の仕方」にまとめています。
幅で示す技術|一点の数字を言い切らない
経営者は必ず「結局いくらですか」と聞きます。ここで一点の数字を答えたくなりますが、答えてはいけません。前提の置き方で結果は動きますし、一点で示した瞬間にそれが基準になり、下振れしたときの説明がつかなくなります。
幅で示すときは、次の三つをセットにします。
- 範囲:下限と上限。根拠の異なる二つの見方から作ると説明しやすい
- 前提:何を前提にした幅なのか(直近の利益水準が続く、設備投資が現状並み、など)
- 感応度:何が変わると、どちらにどれだけ動くのか
また、価格の話をするときは手取りまで一緒に説明すると親切です。譲渡対価がそのまま手元に残るわけではなく、株式譲渡益には20.315%(所得税15%+復興特別所得税0.315%+住民税5%)の課税があります。ここは税理士の領域なので断定は避け、「概算のイメージであり、実際は顧問税理士にご確認ください」と添えるのが実務の作法です。
よくある質問への返し方
説明の後に来る質問は、だいたい決まっています。返し方をあらかじめ用意しておいてください。
- 「同業のあの会社はもっと高く売れたと聞いた」→ 条件が違えば結果は違う、という一般論に逃げず、価値を動かす要因(利益水準、借入、取引先構成、キーマン依存)を並べ、御社はどこが強くどこが弱いかに話を戻す。他社の実名や、確認できない取引の金額には触れない
- 「役員報酬を下げれば利益が増えるのでは」→ そのとおりで、実務では調整して見ます、と肯定したうえで、恣意的に見えない範囲での調整であること、買い手も同じ調整を確認することを説明する
- 「借金があると安くなるのか」→ 会社の値段そのものが下がるのではなく、株主に届く金額が実質の借金の分だけ小さくなる、という説明に置き換える
- 「この金額で買ってくれる会社はいるのか」→ 算定と需要は別だと明言する。幅は出発点で、実際は買い手ごとの戦略で変わる。だから複数の候補に当たる、と次の工程につなげる
- 「もっと高く評価してくれる会社はないのか」→ ある可能性は否定しない。ただし高い評価には理由(シナジー、地域補完、許認可)があり、それを説明できる資料を作るのが仲介者の仕事だと伝える
最後に一つ。説明が終わったら、必ず相手に言い直してもらってください。「私の説明で、いま社長はどう受け取られましたか」と聞くと、伝わっていない箇所がその場で分かります。伝わったかどうかを確認しないまま次工程に進むと、DDや価格交渉の局面で必ず戻ってきます。