本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。初回面談から数週間、決算書を預かって整理し、いよいよオーナーに評価の結果をお伝えする——この場面で渡す資料が、簡易評価レポートです。新人アドバイザーはここで二つの失敗をします。一つは分厚くしすぎること。もう一つは数字を一点で書いてしまうことです。本稿では、レポートの目的、一枚の構成、レンジの示し方、前提と免責、渡し方、そして流出への備えまでを実務の順序で扱います。評価の計算そのものは「簡易株価算定の実務」を先にお読みください。
簡易評価レポートの目的|「価格の通知」ではない
まず目的を正確に持ってください。このレポートは価格を通知する書面ではなく、オーナーが「M&Aを検討するかどうか」を判断するための材料です。目的をこう定義すると、書くべきことが自然に決まります。
- 今の会社が、市場でどのくらいの水準で見られる可能性があるか(相場観)
- その水準がどんな前提の上に成り立っているか(何が効いているか)
- その水準を動かしうる要素は何か(上下の振れ要因)
- ここから先、何が起きるか(プロセスと時間軸)
逆に、書いてはいけないことも決まります。断定的な価格、他社の実名、根拠のない業界水準、税務上の結論、そして「必ず売れます」という趣旨の記述です。仲介者が作る資料は、公認会計士等が作成する株価算定書とは目的も責任範囲も異なります。その違いをレポート自身に書いておくことが、後々の自分を守ります。
そしてもう一つ。このレポートは、オーナーが家族や後継者、場合によっては顧問税理士と会話するときの共通資料になります。その場に自分がいなくても誤解されない書き方を意識してください。
一枚の構成|オーナーが見る順番に並べる
本体は一枚(A4またはA3)に収めるのが理想です。別紙で計算根拠を付けるのは構いませんが、本体が一枚であることに意味があります。オーナーは、分厚い資料を最後まで読みません。私が使っている構成は次のとおりです。
| ブロック | 内容 | 分量の目安 |
|---|---|---|
| ①表紙情報 | 作成日、宛先、作成者、資料の位置づけ(概算であること)、取扱い注意の表示 | 上部に3〜4行 |
| ②前提となる数字 | 直近3期の売上・営業利益・調整後の収益力・純資産・有利子負債(調整項目は別紙参照) | 小さな表1つ |
| ③評価レンジ | 手法別の結果を横棒などで並べ、重なりの範囲を示す | 図1つ |
| ④幅の理由 | 上限に近づく条件・下限に近づく条件を各3点ほど | 箇条書き6行 |
| ⑤手取りのイメージ | 譲渡対価から何が引かれるか(税・費用)の概念図。金額は概算と明示 | 3〜4行 |
| ⑥次の一歩 | 今後の流れと、次回までに確認したいこと | 3行 |
| ⑦前提・免責 | 使用資料、作成基準日、限界、専門家確認の必要性 | 下部に小さく |
③のレンジ図は、この資料の核です。数字を文章で書くのではなく、手法ごとの結果を横に並べて重なりを見せると、オーナーは直感的に理解されます。「時価純資産法ではこのあたり、収益力から見るとこのあたり、重なるのはこの範囲」——この一枚で、価格が幅であることが伝わります。
⑤の手取りイメージを入れる理由は、オーナーの関心が最終的にそこにあるからです。譲渡対価と手元に残る金額は違います。株式譲渡益に対する課税は現行制度で20.315%(所得税15%・復興特別所得税0.315%・住民税5%)であり、加えて仲介手数料等の費用がかかります。金額は概算であること、税務の最終判断は税理士によることを必ず明記してください。
レンジの示し方|幅の理由まで書く
レンジを示すこと自体は、多くのアドバイザーがやっています。差が出るのは幅の理由を書いているかです。幅だけを示すと、オーナーは無意識に上限を見ます。人はそういうものです。だから、上限と下限のそれぞれに条件を紐づけます。
- 上限に近づく条件の例:同業で明確なシナジーを見込む買い手が現れる/主要顧客との取引継続の見通しが具体的に示せる/キーパーソンの残留が見込める/複数の候補が競合する状況になる
- 下限に近づく条件の例:特定顧客への依存が高いまま/オーナー個人に依存した営業体制/簿外の負担が確認された場合/引継ぎ期間が確保できない場合
この書き方には副次的な効果があります。オーナーが「では上限に近づけるには何をすればいいのか」と聞いてくださる。そこから磨き上げの相談が始まります。評価レポートを会話の終点ではなく起点にできるかどうかが、実務者としての分かれ目です。レンジ設計の詳細は「想定価格レンジの示し方」で扱っています。
なお、レンジの幅が広くなりすぎると資料としての意味が薄れます。幅が広い場合は、「今の資料ではここまでしか絞れない。この情報をいただければ絞れる」と、必要な追加資料を具体的に書いてください。それ自体が次の一歩になります。
前提と免責の書き方|後で自分を守る一段落
資料の末尾に置く前提・免責は、形式的な文言ではなく実務上の防具です。最低限、次の要素を入れてください。
- 使用した資料:「◯期分の決算書および試算表(◯年◯月時点)、ヒアリング内容に基づく」
- 検証の範囲:「提供資料の正確性については独自の検証を行っていない」
- 基準日:「本資料は◯年◯月◯日時点の情報に基づく」
- 位置づけ:「本資料は概算であり、公認会計士等による株価算定書ではない」
- 価格の決定要因:「実際の譲渡価格は、買い手との交渉およびデューデリジェンスの結果により変動する」
- 専門家確認:「税務・法務に関する事項は、税理士・弁護士にご確認いただきたい」
- 取扱い:「本資料は貴社内での検討を目的としており、第三者への開示は事前にご相談いただきたい」
この段落は小さな文字で構いませんが、口頭でも一度読み上げることをお勧めします。「ここに書いてあるとおり、これは概算です」と自分の口で言っておくと、後で数字が動いたときの会話がまるで違います。
渡し方と説明の順序|紙より先に言葉
レポートは、いきなり渡してはいけません。資料を出す前に、口頭で三点を話すのが私の型です。
- ①位置づけ:「今日お持ちしたのは概算です。実際の価格は、買い手との話し合いで決まります」
- ②前提:「いただいた決算書と、先日のお話をもとに作りました。ここが変われば結論も変わります」
- ③見ていただきたい順序:「金額の前に、どうしてその幅になるのかを先にご覧ください」
そのうえで資料を渡し、数字のブロックではなくレンジ図から説明を始めます。人は数字を見た瞬間に耳が止まるので、順序が重要です。オーナーの反応が想定と違ったら、そこで説明を続けず、なぜそう感じられたのかを聞いてください。期待値の背景(親族の言葉、同業者の噂、過去に受けた打診)を把握しないまま説明を重ねても、届きません。この会話の設計は「価格の説明の仕方」と「オーナーの心理を理解する」を参照してください。
そして、その場で結論を求めないこと。「持ち帰ってご覧になってください。ご家族と話されたうえで、疑問点を伺えれば」と締めます。急がせないことが、この仕事の信用の基盤です。
流出リスクへの備えと、更新のルール
渡した資料は、想定していない場所で使われます。金融機関への相談、親族への説明、顧問税理士への確認、時には同業者との雑談。悪意はなくとも、そういうものだと考えて作ってください。備えは三つです。
- 表紙に配布先と目的を明記する:「◯◯様社内での検討用」と入れておくだけで、扱いが変わる
- 数字を切り離せない構造にする:金額だけを抜き出せる書き方にしない。前提と一体の図表にする
- 版番号と作成日を入れる:古い版が独り歩きしたときに、どの時点のものか分かるようにする
あわせて、更新のルールを決めておきます。決算期が変わったとき、資料が追加で出てきたとき、事業に大きな変化があったときは作り直す。古い版は回収するか、少なくとも「この版は◯年◯月時点のもので、現在は更新されている」と伝えられるようにしておきます。案件の記録管理の考え方は「受領資料の整理術」にまとめています。
最後に、身も蓋もないことを一つ。簡易評価レポートの品質は、その前の資料収集とヒアリングの質を超えません。数字を綺麗に並べる技術より、決算書の違和感を見つけて社長に聞ける力のほうが、レポートの価値を決めます。「決算書を読む力を身につける」もあわせてお読みください。