売り手オーナーとの初期段階で、「うちはいくらくらいで売れるのか」と聞かれない案件はありません。この問いに、根拠を持って、しかし断定せずに答えるのが簡易株価算定です。本稿では、初回提示の位置づけ、時価純資産の調整項目、正常収益力の出し方、年買法とEBITDA倍率法の使い分け、レンジで示す理由、オーナーへの伝え方を、アドバイザーの実務として整理します。なお、業種別の倍率の相場は、案件・業種・時期で大きく異なるため、本稿では扱いません。
簡易株価算定の位置づけ|初回提示は「相場観の共有」
簡易算定は「鑑定」ではありません。目的は次の3つです。
- オーナーの期待値と、市場(買い手)の考え方とのギャップを早期に把握する
- 進めるかどうかの判断材料を、オーナーに渡す
- ノンネームシート・企業概要書を作る際の、条件設計の基礎にする
最終的な価格は、買い手との交渉で決まります。仲介者が出す数字は、「買い手はこう見るだろう」という予測であって、約束ではありません。中小M&Aガイドライン(第3版・令和6年8月)が、仲介者に対して依頼者への丁寧な説明を求めているのは、まさにこの場面です。
「高く言えば契約が取れる」という誘惑に負けた数字は、後で買い手の提示との落差になり、オーナーの落胆と不信、案件の頓挫を招きます。初回提示の数字は、その後の全工程における信頼の基礎です。企業価値評価の全体像は「企業価値評価(バリュエーション)の基礎」を参照してください。
時価純資産法の調整項目
時価純資産法は、貸借対照表の各科目を時価に引き直し、資産から負債を差し引いて株式価値の基礎とする方法です。簡易段階では、金額の大きな項目に絞って調整します。
| 科目 | 調整の内容 | 確認する資料 |
|---|---|---|
| 売掛金・受取手形 | 回収不能・長期滞留分を減額 | 滞留明細、得意先元帳 |
| 棚卸資産 | 不良在庫・陳腐化在庫を減額 | 在庫明細、回転期間 |
| 有価証券・会員権 | 時価に評価替え | 残高証明、相場 |
| 土地 | 路線価・公示価格・近隣取引等から時価評価 | 固定資産税評価、登記、必要に応じ鑑定 |
| 建物・機械 | 償却不足の修正、実態のない資産の除外 | 固定資産台帳、現場確認 |
| 保険積立金 | 解約返戻金相当額に置き換え | 保険会社の証明 |
| 退職給付 | 未計上の退職金債務を負債に計上 | 退職金規程、勤続年数 |
| 未払費用・未払残業 | 未認識の債務を負債に計上 | 勤怠記録、就業規則 |
| 役員借入金 | 実態に応じて扱いを決める(債権放棄か返済か) | 契約、オーナーの意向 |
| 含み損益の税効果 | 含み益に対する法人税相当額を考慮 | 税理士と確認 |
この時価純資産に、営業権(のれん)として「正常収益力×年数」を加えるのが年買法です。年数は、事業の安定性・オーナー依存度・市場の成長性で判断します。それぞれの方法の基礎は「時価純資産法とは」「年買法とは」で解説しています。
正常収益力(正常化利益)の出し方
年買法の「利益」も、EBITDA倍率法の「EBITDA」も、正常化が前提です。企業概要書の正規化と同じ論点ですが、簡易段階では「金額の大きな項目」に絞ります。
- 役員報酬を、譲渡後に想定される後任経営者の水準に置き換える
- オーナー関連経費(交際費・車両・保険等)を除外する
- 一過性の損益(補助金・資産売却・災害・退職金)を除外する
- 地代家賃を、オーナー所有不動産の相場水準に引き直す
- 減価償却の償却不足を正常化する
単年ではなく、数期の平均または直近期への重み付けで見ます。増収か減収かのトレンドは、必ず明示します。
正常化の各項目は、オーナーに「なぜこれを調整するのか」を説明できなければなりません。「役員報酬を下げれば利益が増えて価格が上がる」と誤解されやすい項目ですが、買い手は「後任経営者の報酬」を必ず織り込むので、実態に合わせるのが正しい姿勢です。詳細は「実質利益(正常収益力)とは」を参照してください。
年買法とEBITDA倍率法の使い分け
| 観点 | 年買法 | EBITDA倍率法 |
|---|---|---|
| 考え方 | 時価純資産+営業権(正常収益力×年数) | 事業価値=EBITDA×倍率。そこから純有利子負債を差し引いて株式価値 |
| 向いている会社 | 資産の厚い会社、収益が安定または小規模、純資産の比重が大きい | 収益力が価値の中心、成長性がある、借入がある会社 |
| 説明のしやすさ | オーナーに直感的(「純資産+のれん」) | 買い手(事業会社・投資会社)の思考に近い |
| 弱点 | 年数の根拠が主観的。成長性を反映しにくい | 倍率の根拠が案件・業種・時期で変わる。純有利子負債の扱いで結果が動く |
| 実務での扱い | 両方を計算し、乖離の理由を説明する | |
使い分けの基本は、「両方計算する」です。年買法は「オーナーの理解」を、EBITDA倍率法は「買い手の見方」を代表します。両者が大きく乖離する場合、その理由——資産は厚いが収益が薄い、あるいは資産は薄いが収益力が高い——そのものが、この会社の価値の本質を語っています。
倍率の具体的な水準は、本稿では示しません。案件の規模・業種・成長性・買い手の属性・時期で異なり、一律の相場を示すことは誤解を生むからです。社内の過去案件と、公開されている取引事例・上場類似企業の指標を参考に、根拠を持って設定してください。指標の考え方は「EBITDAとは」で解説しています。
レンジで示す理由と示し方
簡易算定の結果は、必ず幅(レンジ)で示します。理由は4つあります。
- 前提(正常化の程度・年数・倍率・純有利子負債)に幅があり、点で示すのは誠実でない
- 買い手によって評価が異なる(シナジーのある買い手は高く、そうでない買い手は低く)
- 点で示すとオーナーの期待値がその一点に固定され、後の交渉で下回ったときの落胆が大きい
- 点の数字は独り歩きする(家族・顧問先に伝わり、修正がきかなくなる)
示し方は、「保守的なケース」「標準的なケース」「買い手にシナジーがあるケース」の3段階、または下限〜上限とその前提の併記です。各ケースの前提を必ず添え、「最低ライン」だけを強調しないでください。買い手の提示がレンジの下限を下回る可能性(DDで見つかる事項、市場環境の変化)も、あらかじめ伝えておきます。
オーナーへの伝え方|数字より先に前提を話す
伝える順番は固定します。数字を最初に出すと、前提を聞いてもらえません。
- 算定の位置づけ(鑑定ではない・最終価格は買い手との交渉で決まる)
- 前提(どの数値を使い、何をどう調整したか)
- 方法(年買法とEBITDA倍率法。なぜ両方か)
- 結果(レンジ)
- 乖離の要因と、上下しうる要因
- 次のステップ(希望条件との照合、進めるかどうか)
オーナーの期待値とギャップがある場合は、その理由を前提と方法に立ち返って丁寧に説明します。「価格を上げるためにできること」(正常化の裏付け資料の整備、オーナー依存の解消、口約束になっている契約の書面化など)と「できないこと」を分けて話し、無理に数字を寄せません。
やってはいけないことも明確です。「この金額で売れます」と断言する。他社の提示額を貶める。契約を取るために高く言う。根拠を示さずに「相場です」と言う。いずれも、オーナーの信頼を将来にわたって損ないます。
算定結果は、前提・方法・レンジ・注意事項(簡易算定であり最終価格を保証しない旨)を1〜2枚の書面にして渡します。口頭だけでは、数字だけが記憶に残ります。あわせて当社の報酬体系——成功報酬は移動総資産レーマン方式(基準額=株式価値+負債総額)で最低2,000万円(税別)、基本合意時に成功報酬額の10%を中間金として受領し成功報酬から全額差し引く(ただし基本合意後に不成立となった場合は返金しない)——も同時に説明し、「いくらで売れて、いくら手元に残るか」の見通しをオーナーが持てるようにします。数字を渡すことは、責任を引き受けることです。当社では、簡易算定を新人が一人で提示することはなく、必ず上長の確認を経ます。