本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。基本合意は案件の折り返し点です。ここで条件の骨格が固まり、買い手はDDに費用を投じ、売り手は他の候補との交渉を止めます。ところが実務では、条項の議論に気を取られて独占交渉期間の設計が雑になり、DDが終わらないまま期間切れを迎える案件が少なくありません。ここでは締結時に何を固定し、期間をどう設計し、期間中に何を管理するのかを整理します。条項の起案そのものは「基本合意書の主要論点とドラフティング」に譲り、本稿は締結実務と期間設計に絞ります。
基本合意で何を固定するか|拘束力の切り分け
基本合意書(MOU・LOI)は、名称ではなく中身で性質が決まります。実務では、ほとんどの条項に法的拘束力を持たせず、一部の条項にだけ持たせるのが通例です。切り分けの目安は次のとおりです。
| 区分 | 典型的な条項 | 実務上の扱い |
|---|---|---|
| 拘束力を持たせる | 秘密保持、独占交渉義務、費用の負担、有効期間、準拠法・管轄 | この案件を進める「ルール」なので、明確に拘束力を持たせる |
| 持たせない | 譲渡価格、スキーム、クロージング予定日、従業員の処遇方針 | DDの結果で変わりうる。拘束すると後の調整が硬直する |
| 案件による | DDへの協力義務、善管注意義務(通常業務の維持)、公表の制限 | 売り手の負担を見て決める。協力義務を過度に重くしない |
新人がつまずくのは、売り手から「価格に拘束力を持たせてほしい」と言われる場面です。気持ちは分かりますが、価格を拘束すればDDで発見事項が出ても調整できず、買い手は基本合意そのものを結ばない選択をします。拘束力ではなく「変更するときの手続」を書くほうが実務的です。たとえば「価格の変更は、その理由と根拠を書面で示して協議する」と定めておけば、根拠のない値下げ要求を防げます。
もう一つ、締結時に売り手へ必ず説明することがあります。当社の中間金は基本合意の締結時に発生し、成功報酬額の10%を申し受けます。中間金は成功報酬から全額差し引きますが、基本合意後に不成立となった場合も返金しません。この説明は締結の直前ではなく、意向表明を受け取った段階で改めて行ってください。仲介契約時に説明済みであっても、実際に費用が発生する場面での再確認は必須です。当社の料金体系は「料金体系のページ」に、中間金の考え方は「M&Aの中間金とは」に整理しています。
独占交渉期間の設計|長さ・起算日・延長条項
独占交渉期間は、売り手が他の候補との交渉を止める代わりに、買い手が費用をかけて調査を進めるための期間です。設計の要素は三つあります。
長さ
短すぎるとDDが終わらず延長を繰り返し、長すぎると売り手が身動きの取れない期間が延びます。実務では、DDの想定期間に契約交渉の時間を足し、そこに余裕を見て設定します。決め方の順序は「DDの範囲 → 想定期間 → 契約交渉 → 期間」であり、先に期間を決めてから作業を押し込むのは逆です。買い手側の専門家がまだ選定されていない段階で期間だけ決めると、ほぼ確実に足りなくなります。
起算日
「締結日から」とするのが一般的ですが、実務上はDDの開始日を起算にしたほうが実態に合う場面があります。締結からDD開始まで数週間空くことは珍しくないためです。少なくとも、締結日を起算にするなら「DDは締結後◯日以内に開始する」と買い手側の義務を併記してください。
延長条項
延長は必ず論点になります。次の三点を書き分けておくと、期限が近づいたときに揉めません。
- 誰の合意で延長できるか:書面による双方の合意を要件にする(自動延長は避ける)
- 延長の申し入れ期限:満了の何日前までに申し入れるか
- 延長の回数・上限:上限を設けておくと、だらだら続くことを防げる
仲介者としては、満了の三週間前にアラートを立てる運用を勧めます。満了の直前に「延長したい」と言われると、売り手には断る選択肢が実質的になくなります。早めに議題に載せることが、売り手の交渉力を守ります。
期間と同時に工程表を作る|逆算で日付を置く
期間を決めただけでは管理になりません。締結と同時に、満了日から逆算した工程表を作ります。最低限、次の日付を置きます。
- DD開始日/資料開示の完了目標日
- Q&Aの締切(第1回・第2回)とマネジメントインタビューの日
- DD報告書の受領目安と、発見事項の協議日
- 最終契約書のドラフト提示日、修正版の往復回数の想定
- 買い手の社内承認(取締役会等)の予定日
- 金融機関の融資承認の予定日(借入がある場合)
- クロージング候補日と、決済に必要な書類の準備開始日
- 従業員・取引先への開示予定日
工程表は買い手・売り手の双方に共有し、更新のたびに版番号と日付を入れます。とくに買い手側の社内承認と金融機関の融資承認は、こちらから催促しないと後ろにずれる項目です。予定日の一週間前に必ず状況を確認してください。工程管理の型は「案件の工程管理」で詳しく扱っています。
独占期間中の売り手の禁止事項と例外
独占交渉義務の条項は、売り手が何をしてはいけないかを定めます。典型は次のとおりです。
- 第三者との間で、株式譲渡・事業譲渡等に関する交渉や情報提供を行わないこと
- 第三者からの打診に応じないこと(受領自体を禁じるか、受領して通知するかは要検討)
- 会社の重要な財産の処分、多額の借入、役員構成の変更などを行わないこと
- 通常の業務の範囲を超える取引を行わないこと
実務で問題になるのは例外の書き方です。売り手は独占期間中も会社を経営しています。設備の更新、従業員の採用、既存取引先との契約更新など、通常の業務は当然に続きます。「通常の業務の範囲内の行為を除く」という例外を必ず入れ、金額基準(たとえば一定額を超える支出は事前協議)を置いておくと、現場が動きやすくなります。
仲介者は締結時に、売り手へ次の三点を口頭でも説明してください。①この期間は他の候補と話せないこと、②既存の打診にも応じられないこと、③期間中に会社の状態を大きく変える行為は事前に相談してほしいこと。書面に書いてあっても、経営者は読み流します。具体例で説明するのが親切です。
もう一点、独占交渉義務に違反した場合の効果も確認しておきます。違約金を定める例もありますが、中小企業のM&Aでは「協議のうえ解決する」程度にとどめることも多く、案件の性質と当事者の力関係で決まります。ここは弁護士の関与する領域なので、仲介者が独自に案文を作らないでください。
締結の段取り|条件確定から調印までの一週間
最後に、締結までの実務の流れです。私は次の順で回しています。
- 条件の確定:意向表明の内容と、その後の質疑で確定した事項を一覧にして双方に確認する
- ドラフトの起案:買い手側の弁護士が起案することが多い。売り手側にも必ず弁護士を立ててもらう
- 売り手への逐条説明:仲介者は法的見解を述べず、条項の趣旨と実務上の影響を説明し、判断は弁護士に確認してもらう
- 修正の往復:修正点は一覧表(論点表)にまとめて回す。メール本文に散らさない
- 調印日の設定:押印者・押印場所・部数・印紙の要否を事前に確認する
- 調印当日:双方の署名者の本人確認、記名押印、原本の授受、写しの保管まで仲介者が段取りする
- 締結後の連絡:工程表の再共有、DD開始の日程調整、中間金のご請求
調印は儀式でもあります。売り手にとっては、会社を手放す決断を初めて紙にする日です。日程を詰め込みすぎず、締結後に売り手と少し話す時間を取ってください。ここで出てくる不安が、その後のDDや従業員開示の設計に効いてきます。締結直後の高揚感のあとに気持ちが揺れる売り手は珍しくありません。そのときに連絡が取れる関係を作っておくことも、仲介者の仕事です。
締結が終わったら、すぐにDDの準備に入ります。売り手側の資料準備の支援は「売り手のDD準備支援」に続けてください。