本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。DDが荒れる案件には共通点があります。準備が始まるのが遅いのです。基本合意を締結してから「では資料を集めましょう」と動き出すと、売り手は本業と並行して数十点の資料を探すことになり、初動で二週間を失います。準備は仲介契約の時点から始まっています。ここでは、いつ・何を・どう集め、抜け漏れをどう防ぐかを整理します。DD期間中の運営そのものは「DD対応の実務」を参照してください。
準備は仲介契約時から始まる|三段階の前倒し
売り手のDD準備は、三段階に前倒しできます。
- 第一段階(仲介契約時):企業概要書(IM)を作るために必要な資料を預かる。決算書・申告書、定款、登記事項証明書、株主名簿、主要な契約書、組織図、借入明細。この時点で集めた資料は、そのままDDのA分類になります
- 第二段階(トップ面談前後):買い手の関心分野が見えてきたら、その分野の資料を先回りして整える。人材評価で買われる案件なら人事関連、不動産が論点なら不動産関連
- 第三段階(基本合意直後):買い手側専門家の資料リストを受け、残りを集める
第一段階と第二段階を丁寧にやっておくと、第三段階で新たに探す資料は驚くほど減ります。逆に、第一段階を「決算書3期分だけ」で済ませてしまうと、DDで一気に負荷が来ます。企業概要書の作成過程は、実は最良のDD準備です。「企業概要書(IM)の書き方」で作った資料の裏づけを、そのままDDに使う意識で集めてください。
もう一つ、前倒しの効用があります。資料を早く見れば、論点も早く見つかるのです。名義株の疑い、簿外の保証債務、未払残業代、許認可の名義——DDで買い手側から指摘される前に、売り手側で把握できていれば、対応の選択肢が格段に広がります。
資料を4層で棚卸しする|会社・数字・人・契約
資料の棚卸しは、買い手側のリストを待たずにこちらから作ります。私は次の4層で整理させています。
| 層 | 主な資料 | 入手先 |
|---|---|---|
| 第1層 会社の骨格 | 定款、登記事項証明書、株主名簿、株主総会・取締役会議事録、許認可の写し | 会社、法務局、顧問税理士・司法書士 |
| 第2層 数字 | 決算書・法人税等申告書(3〜5期)、月次試算表、勘定科目内訳明細、固定資産台帳、借入明細、資金繰り表 | 顧問税理士 |
| 第3層 人 | 就業規則・賃金規程、従業員名簿(入社日・役職・雇用形態)、給与台帳、勤怠記録、社会保険の加入状況、労使協定 | 会社、顧問社会保険労務士 |
| 第4層 契約・資産 | 主要取引先との契約書、賃貸借契約、リース契約、保険契約、知的財産、係争の有無、保証・担保の一覧 | 会社、顧問弁護士 |
棚卸し表の列は「番号・資料名・層・有無・保管場所・入手先・依頼日・受領日・備考」。この番号は、DD開始後のデータルームのフォルダ番号とQ&Aの参照番号にそのまま使えるよう、早い段階で固定します。
実務のコツは、顧問税理士との分担を最初に決めることです。第2層のほとんどは税理士の事務所にあります。売り手から税理士へ一報を入れてもらい、仲介者が直接やり取りできる状態を作ると、収集の速度が数倍変わります。ただし、案件の存在を誰に伝えるかは売り手の判断です。勝手に連絡しないでください。顧問税理士との関係づくりは「士業との連携」で扱っています。
抜け漏れが起きる典型パターンと予防
抜け漏れは、だいたい同じところで起きます。
- 紙でしか存在しない資料:古い契約書、手書きの議事録、旧倉庫の保管分。「探す時間」を工程に入れておく
- 社長個人が持っている資料:自宅の金庫、個人の携帯電話で交わした取引先とのやり取り。会社の資料と個人の資料の境界が曖昧な会社は多い
- 期限切れ・更新漏れ:許認可の更新、契約の自動更新、保険の失効。有効期限のある書類は一覧にして期限列を作る
- 関係会社・関連者との取引:社長個人や親族が所有する不動産の賃貸、関係会社との取引、役員貸付金。売り手は「身内の話」と考えて申告しないことがある
- 口約束の取り決め:取引先との値決め、従業員への将来の約束、退職者との合意。書面がないものほど後で問題になる
- 最新版と旧版の混在:契約書の版が複数あり、どれが有効か分からない。原本の所在を確認する
予防策はひとつしかありません。チェックリストを使い、口頭で確認することです。「他にありませんか」では出てきません。「社長個人名義で会社が使っている資産はありますか」「ご親族が役員や従業員になっている会社との取引はありますか」と、具体的に聞いてください。役員貸付金や関係会社取引の論点は「役員借入金・貸付金の扱い」も参考になります。
「存在しない資料」の扱い方|作らせない、隠さない
中小企業では、買い手側のリストにある資料の一部が存在しないのが普通です。内部統制文書、各種規程、開催実態のない取締役会の議事録、部門別の損益資料。ここでの原則は二つです。
第一に、急いで作らせない。DDのために遡って議事録を作成したり、実態のない規程を整備したりすることは、後に表明保証違反や信頼の毀損につながります。存在しないことは、それ自体が隠すべき事実ではありません。
第二に、代替の確認方法を提案する。規程がなければ実際の運用を口頭で説明しメモに残す、部門別損益がなければ売上台帳から集計表を作る、といった形です。「無い」で終わらせず、「無いが、こう確認できる」まで持っていくのが仲介者の仕事です。
ただし、作成が必要な資料と存在しない資料は区別してください。取引先別売上一覧や従業員名簿は、多くの会社で「まとまった形では存在しない」だけで、元データはあります。この場合は雛形を仲介者が用意し、売り手は数字を埋めるだけにします。空のエクセルを渡して「作ってください」と頼むのは、支援ではありません。
そして、実態と異なる整備を行わないことは、売り手を守ることでもあります。DDで発覚しなくても、最終契約の表明保証で「規程が適法に整備・運用されている」と表明してしまえば、後日の補償リスクを自ら作ることになります。表明保証の構造は「表明保証の範囲と期間」で扱います。
事前ヒアリングで論点を先に見つける|質問の型
資料を集めるだけでは、準備は半分です。もう半分はヒアリングで論点を先に見つけることです。私が必ず聞く質問を挙げます。
- 株式について:過去に株主の変更はあったか。名義を借りた株はないか。相続で分散していないか。株券発行会社か
- 労務について:残業代の計算方法、固定残業代の有無、タイムカードと実態の差、有給の取得状況、過去の労使トラブル
- 取引について:主要取引先との契約に、支配権の変動で解除できる条項(チェンジ・オブ・コントロール条項)はあるか
- 資産について:社長個人や親族の資産を会社が使っていないか。逆に会社の資産を個人が使っていないか
- 債務について:個人保証の一覧、担保に入っている資産、他社の借入に対する保証はないか
- 係争について:訴訟、クレーム、行政指導、税務調査の履歴と結果
- 最後にひとつ:「買い手に知られたら困ることは何ですか」——この質問は、信頼関係ができてから、二人きりの場で聞きます
最後の質問は、聞き方を間違えると関係を壊します。「隠し事を暴く」姿勢ではなく、「先に知っておけば守れる」という説明を添えてください。実際、事前に把握できていれば、価格への反映を最小化する打ち手はいくつもあります。DDで買い手から突きつけられてから知るのが、最悪の展開です。
チェンジ・オブ・コントロール条項の実務は「チェンジ・オブ・コントロール条項とは」に、指摘が出た後の対応は「DD指摘事項への対応」に続けてください。