M&Aの検討を始められた経営者様の多くは、「最終契約書に署名した日が、会社を引き渡す日」とお考えになります。しかし実務では、最終契約の締結日と、実際に株式と対価をやり取りする日は、別の日として設定されるのが一般的です。この後者、すなわち取引を実行する日と手続きのことを「クロージング」と呼びます。
クロージングは、長い交渉の締めくくりであり、オーナー経営者にとっては会社を託す日でもあります。当日は限られた時間のなかで多くの書類が行き交うため、何がどのような順序で行われるのかを事前に把握しておくことが、落ち着いて臨むための何よりの準備になります。本稿では、クロージングの前提となる条件から、当日の具体的な流れ、その後の手続きまでを整理してご説明します。
クロージングとは|契約の締結と実行は別の日
クロージング(closing)とは、M&Aの最終契約に基づいて、売り手が株式を引き渡し、買い手が対価を支払うという、取引の実行そのものを指します。この日をもって、対象会社の支配権は買い手に移転します。
なぜ、契約の締結日(サイニング)と実行日(クロージング)を分けるのでしょうか。理由は、契約を結んだ時点では、取引を実行するために必要な準備がまだ整っていない場合があるからです。たとえば、次のような事情です。
- 株式に譲渡制限が付されており、株主総会または取締役会の承認決議が必要
- 他の株主から株式を集約する手続き(名義株の整理など)が残っている
- 金融機関からの買収資金の融資実行に、一定の期間を要する
- 主要な取引契約に、支配権の変更を制限する条項(チェンジ・オブ・コントロール条項)があり、取引先の同意取得が必要
- 許認可の承継や届出について、当局への手続きが必要
- 経営者保証の解除について、金融機関との調整が必要
これらを整えるための期間を確保したうえで、すべての準備が整った日に取引を実行する——それがサイニングとクロージングを分ける理由です。中小企業のM&Aでは、この間隔は数週間から1〜2か月程度に設定されることが多く見られます。もっとも、準備すべき事項が少ない案件では、契約締結と同日にクロージングを行う(同時クロージング)こともあります。
なお、最終契約書そのものの性格や、その前段階である基本合意書との違いについては「基本合意書(LOI)と最終契約書(SPA)の違いと注意点」をご参照ください。
クロージング条件(前提条件・CP)とは何か
最終契約書には、「以下の条件がすべて満たされた場合に限り、当事者はクロージングを実行する義務を負う」という定めが置かれます。これがクロージング条件、実務でいう前提条件(Conditions Precedent、CP)です。
前提条件は、サイニングからクロージングまでの間に、取引の前提が崩れていないことを確認するための仕組みです。代表的な条件は次のとおりです。
| 条件の種類 | 内容の例 |
|---|---|
| 表明保証の正確性 | 契約締結時にした表明保証が、クロージング日においても重要な点で真実かつ正確であること |
| 義務の履行 | クロージングまでに履行すべきと定められた義務(誓約事項)を、当事者が履行していること |
| 必要な承認の取得 | 株式譲渡承認決議、取引先の同意、当局の許認可・届出など、必要な手続きが完了していること |
| 重大な悪影響の不発生 | 対象会社の事業や財政状態に重大な悪影響を及ぼす事象が生じていないこと |
| 役員の辞任 | 退任予定の役員から、クロージング日付の辞任届が提出されていること |
| 資金調達の完了 | 買い手において、買収資金の調達が完了していること(買い手側の条件として置かれる場合) |
売り手として注意したいのは、前提条件が満たされなければ買い手は取引の実行を拒むことができる、という点です。とりわけ表明保証の正確性は重要で、サイニング後に表明保証違反となる事実が判明した場合、クロージングそのものが実行されない可能性があります。表明保証の内容と責任範囲については「表明保証とは|M&A契約における売り手の責任範囲と補償」で詳しくご説明しています。
また、サイニングからクロージングまでの期間中、売り手は対象会社を従前と同様の方法で通常どおり運営する義務(善管注意義務・事業運営に関する誓約)を負うのが通常です。この期間に、多額の設備投資、重要な資産の処分、役員報酬の大幅な変更といった通常でない行為を行うと、契約違反となりかねません。判断に迷う事柄が生じた場合は、独断で進めず、必ずアドバイザーや弁護士にご相談ください。
クロージング当日の流れ|引き渡しと決済
クロージング当日は、金融機関の営業時間内に着金を確認する必要があるため、午前中から昼過ぎにかけて行われるのが一般的です。売り手・買い手の双方と、それぞれのアドバイザー、必要に応じて司法書士等が一堂に会し、次のような順序で進みます。
① 前提条件の充足確認
まず、契約に定められた前提条件がすべて満たされていることを、双方で確認します。承認決議の議事録、取引先からの同意書、辞任届などの書類を照合し、必要に応じて「前提条件が充足された旨の確認書」を取り交わします。
② 書類・物品の引き渡し
売り手から買い手へ、株式の移転と会社の支配に必要な書類・物品を引き渡します。株券発行会社であれば株券そのもの、株券不発行会社であれば株主名簿の名義書換に必要な書類が中心となります。あわせて、会社実印・銀行印、印鑑カード、預金通帳、定款、各種契約書の原本といった、会社運営に不可欠なものが引き渡されます。
③ 株主名簿の名義書換
対象会社が株主名簿の名義を買い手に書き換え、書換後の株主名簿(または株主名簿記載事項証明書)を買い手に交付します。株式の譲渡を会社および第三者に対抗するために必要な手続きであり、クロージングの中核をなす作業です。
④ 譲渡対価の決済
買い手が、売り手の指定口座へ譲渡対価を送金します。売り手が着金を確認した時点で、決済は完了です。多くの場合、売り手はその場で銀行のオンラインバンキングや窓口で入金を確認します。
⑤ 臨時株主総会の開催・新体制の決定
決済完了後、株主となった買い手が臨時株主総会を開催し、新任役員の選任などを決議します。退任する役員の辞任届とあわせ、この日をもって経営体制が切り替わります。買い手側から新代表者が就任するケースが一般的ですが、譲渡オーナーが一定期間、代表や顧問として残る設計とすることもあります。
⑥ 関係書類の確認と終了
最後に、引き渡した書類のリストや受領書を確認し、クロージングは終了します。この日をもって、会社は正式に新しいオーナーのもとで再出発することになります。
当日までに準備する書類と物品
クロージング当日に慌てないためには、事前の準備が欠かせません。売り手側で用意することが多いものを挙げます。
- 株券(株券発行会社の場合)、または株券不発行であることを確認できる資料
- 株主名簿、株主名簿の名義書換請求書
- 株式譲渡承認に関する株主総会または取締役会の議事録
- 退任する役員の辞任届(クロージング日付)
- 会社実印・銀行印・印鑑カード、代表者印の引き渡しに関する書類
- 定款、登記事項証明書、印鑑証明書
- 預金通帳、キャッシュカード、インターネットバンキングの認証機器
- 重要な契約書・許認可の原本、不動産の権利証等
- 従業員名簿、就業規則、労働者名簿等の労務関係書類
- 社内システム・各種サービスの管理者アカウント情報
とりわけ見落とされやすいのが、最後に挙げたアカウント情報や、社外の各種サービスの契約者情報です。会計ソフト、給与計算、勤怠管理、クラウドストレージ、ドメインやWebサイトの管理権限——これらが引き継がれないまま前オーナーが離れてしまうと、日常業務が止まりかねません。事前にリストを作成し、クロージングまでに整理しておくことをおすすめします。
また、株主名簿が長年更新されていない、名義株が残っている、株券の所在が分からないといった株式まわりの整理不足は、中小企業のM&Aで非常に多い論点です。これらはクロージング直前に判明すると日程に影響しますので、検討の早い段階で確認しておきたい事項です。デューデリジェンスへの備えについては「デューデリジェンス(DD)とは|調査項目と売り手の準備」もあわせてご覧ください。
クロージング後の手続き|役員変更登記と各種届出
クロージングで取引は実行されますが、手続きはそこで終わりではありません。当日以降、次のような対応が続きます。
役員変更登記
役員の就任・退任があった場合、法務局への変更登記が必要です。会社法上、登記事項に変更が生じたときは所定の期間内に登記申請を行うこととされており、実務では司法書士に依頼して速やかに手続きを進めます。株式譲渡そのものは登記事項ではありませんが、代表取締役をはじめとする役員構成の変更は登記に反映されます。
金融機関・取引先への連絡
取引金融機関への届出印・代表者の変更手続き、主要取引先への挨拶と契約名義の確認などを行います。経営者保証の解除については、クロージングの前提条件として整理されている場合もあれば、クロージング後に金融機関と手続きを進める場合もあります。個人保証の扱いは譲渡オーナーにとって極めて重要な論点ですので、「経営者保証は外せるか|M&Aによる個人保証解除の実務」もご参照ください。
従業員への説明
多くの案件では、クロージングの前後で従業員への開示が行われます。開示のタイミングと伝え方は、その後の定着に大きく影響する繊細な論点です。詳しくは「会社売却を従業員にいつ・どう伝えるか|開示のタイミングと注意点」をご覧ください。
引き継ぎ(トランジション)
譲渡オーナーが一定期間、代表や顧問として残り、取引先の紹介、業務ノウハウの共有、キーパーソンへの権限移譲などを行うのが一般的です。期間は案件によりますが、数か月から1〜2年程度に設定されることが多く、この期間の役割・報酬・関与の度合いは最終契約や別途の委任契約で定めます。ここでの丁寧な引き継ぎが、成約後の統合(PMI)の成否を大きく左右します。統合の要点は「PMIとは|M&A成立後の統合を成功させる3つの要点」で解説しています。
まとめ|クロージングは終わりではなく引き継ぎの始まり
クロージングは、最終契約に定められた前提条件がすべて満たされたことを確認したうえで、株式と対価を実際にやり取りする手続きです。当日は、前提条件の確認、書類・物品の引き渡し、株主名簿の名義書換、決済、そして新体制の決定という順序で進み、通常は半日程度で完了します。
この日を滞りなく迎えるために大切なのは、前倒しの準備です。株主名簿や株券の整理、退任役員の辞任届、取引先の同意取得、金融機関との調整、そしてアカウント情報を含む引き継ぎリストの作成——いずれもクロージング直前に着手すると日程に影響します。アドバイザーとともに、逆算したスケジュールで一つずつ潰していくことが、円滑な実行につながります。
そして何より、クロージングはM&Aの終着点ではありません。譲渡オーナーにとっては、従業員と取引先を新しい体制へ確実に引き継いでいく期間の始まりです。当社プラチナパートナーズでは、クロージングの準備から当日の立会い、その後の引き継ぎ期間まで一貫してお手伝いしています。手続きの進め方にご不安がある方も、どうぞお気軽にご相談ください。当社の支援の全体像はM&Aの流れをご覧ください。