本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。株式譲渡の場面では、退任するオーナー経営者に役員退職慰労金を支給するかどうかが、ほぼ必ず論点になります。手続きを間違えると支給そのものが無効になりかねず、金額の決め方を誤れば税務上の問題にもつながります。一方で、金額が適正かどうかの判断は税理士の領域であり、仲介者が答えを出すものではありません。本稿では、仲介者が担う「手続きが滞りなく進むよう段取りを整える」部分と、「専門家に渡すべき部分」の線引きを整理します。税務の基礎は「アドバイザーが押さえる税務の基礎」も併せてご覧ください。

なぜ譲渡の場面で退職慰労金が話題になるのか

長年会社を率いてきた経営者が退任する以上、退職慰労金の支給を検討すること自体は自然な流れです。実務で論点になるのは、主に次の三つの理由からです。

  • 受け取り方が変わる:同じ手取りを目指す場合でも、株式の対価として受け取るか、退職慰労金として受け取るかで課税関係が異なります。どちらがどうなるかは個別事情で変わるため、必ず税理士の確認を仰ぎます
  • 会社の財産が動く:退職慰労金は会社から支払われます。支給すれば会社の純資産と現預金が減るため、買い手が見ている企業価値に直接影響します
  • 手続きが要る:役員報酬と同じく、退職慰労金は会社が勝手に払えるものではなく、定款の定めまたは株主総会の決議が必要とされています

したがって仲介者は、価格の話が固まる前に「退職慰労金を出す前提か、出さない前提か」を双方の共通認識にしておく必要があります。ここが曖昧なまま進むと、最終契約の段階で「その金額は譲渡価格に含まれていたのか」という食い違いが起き、「価格の再交渉が起きたとき」で扱うような難しい局面を自分から作ってしまいます。

決議の手続き — 誰が、何を決めるか

会社法上、取締役の報酬等(退職慰労金を含むとされています)は、定款に定めがなければ株主総会の決議によって定めることとされています。中小企業の実務では、次の形が一般的です。

段階決めること残す書面
株主総会支給すること、支給の対象者、総額の上限または算定の基準。具体的な金額・時期・方法は取締役会(または取締役)に一任する形が多い株主総会議事録
取締役会等一任を受けた範囲で、金額・支給時期・支給方法を決定取締役会議事録
社内規程役員退職慰労金規程がある場合は、その基準に沿っているかを確認規程本体・適用の計算書

仲介者が確認するのは、書面が実在するか、日付の前後が整合しているかです。「決議したことにしておいてください」という依頼は、いかなる理由でも受けません。議事録がないまま支給された過去の例が見つかった場合も、隠さずに論点として上げます。一任決議の範囲や議事録の記載事項については、個別の判断を弁護士(登記に関わる部分は司法書士)にご確認ください。

支給の時期をいつに置くか

支給時期は、譲渡日との関係で三つの置き方があります。それぞれ、誰の財布から出るのかが変わります。

  • 譲渡日の前に決議・支給:旧体制のもとで完結する。会社の現預金が減った状態で引き渡すことになるため、価格の前提に織り込まれている必要があります
  • 譲渡日に決議・支給:決済と同日に行う形。当日の資金の流れが複雑になるため、誰がどの口座からいくら払うかを事前に一枚にまとめておきます
  • 譲渡日の後に支給:新体制のもとで支払われる。買い手の協力が前提になるため、契約に支給を行う旨を定めておくのが通例です

どの形でも、資金繰りが回るかを必ず確認します。帳簿上は支給できても、手元資金が足りなければ会社の運転資金を圧迫します。生命保険の解約返戻金を原資にする場合は、解約の手続きに要する日数と入金日を先に押さえてください。また、支給の時期は損金算入の時期に関わるため、期の区切りとの関係を税理士に確認する必要があります。日程の組み方は「譲渡日をいつにするか」と一体で考えます。

譲渡対価との関係 — 総額で見る

売り手にとって関心があるのは、株式の対価と退職慰労金を合わせた手元に入る総額です。一方で買い手が見ているのは、会社を買うために出す総額と、買った後に残る会社の財産です。この二つを同じ表で見えるようにするのが、仲介者の仕事になります。

見る人見ている数字すれ違いが起きる点
売り手株式の対価+退職慰労金(それぞれの手取り)課税関係が異なるため、額面の合計だけでは比較できない
買い手株式の取得価額+支給後に減る会社の現預金退職慰労金を「価格とは別」と誤解すると、後から負担感が生じる

実務では、「退職慰労金を支給する前提の株価」なのか「支給しない前提の株価」なのかを、意向表明の段階から言葉にして揃えます。数字を並べるときは、額面だけでなく「この前提だとこうなる」という条件つきの形で示し、手取り額の試算は税理士の確認を経てから伝えます。仲介者が独自に手取りを計算して断定的に伝えると、後から差が出たときに信頼を失うだけでなく、税務代理に近い行為になりかねません。

仲介者がやってはいけないこと

この論点は、仲介者が線を越えやすい場面です。次の三つは行いません。

  • 適正額の判断:功績倍率や在任年数を使った計算式を示して「この金額なら大丈夫です」と言うこと。不相当に高額とされるかどうかの判断は税務の領域であり、税理士の確認が必要です
  • 節税目的の提案:税負担を軽くするために金額の配分を組み替えることを仲介者が主導すること。結果として当事者に不利益が及ぶ可能性があり、当社では行いません
  • 書面の後付け:決議の日付を遡らせる、議事録を作り直すといった依頼への協力

では何をするかというと、論点を早く立てて、専門家に渡し、期日までに書面が揃うよう管理することです。具体的には、(1)支給の有無を初期に確認する、(2)規程・過去の支給例・保険の有無を資料として集める、(3)税理士・弁護士への確認事項を一覧にして依頼する、(4)決議と支給の日程を工程表に入れる、の四つです。判断は専門家に、段取りは仲介者に。この分担を崩さないことが、結果として案件を最も速く前に進めます。

本稿は仲介実務の一般的な型を解説するものです。税額・適正額・課否の具体的な判定は税理士(または所轄の税務署)に、法的な取り扱いは弁護士にご確認ください。アドバイザーは税務代理・法律事務を行いません。

よくあるご質問

A.支給が義務づけられているわけではありません。支給するかどうかは、会社の規程の有無、資金繰り、買い手との合意によって決まります。支給しない前提で価格を組むことも普通に行われます。大切なのは、支給する前提なのかしない前提なのかを、価格の話が固まる前に双方の共通認識にしておくことです。
A.会社法は取締役の報酬等について定款の定めまたは株主総会の決議を求めているとされており、手続きを欠いた支給は効力が争われる可能性があります。買い手の調査でも必ず確認される項目です。過去に議事録のない支給が見つかった場合は、隠さず論点として上げ、取り扱いを弁護士にご確認ください。
A.社内に役員退職慰労金規程があればまずその基準を確認します。規程がない場合の算定や、金額が不相当に高額とされないかどうかの判断は税務の領域ですので、税理士にご確認ください。仲介者が計算式を示して金額の妥当性を保証することはいたしません。
A.生命保険の解約返戻金を充てる、支給時期を分ける、支給額を見直すといった選択肢があります。いずれも会社の資金繰りと、買い手が見ている財務状態に影響しますので、税理士と買い手を含めて早い段階で共有してください。解約手続きに要する日数と入金日は、譲渡日の設定にも関わります。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら