本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。仕入先や販売先が買い手候補になる案件は、中小企業のM&Aでは少なくありません。互いの事業を知っているため話が早く、承継後の取引も続きやすい。一方で、断られた場合も日常の取引は続くという、同業への打診とはまた違う難しさがあります。ここでは、近い相手だからこその利点と注意、そして進め方の設計を整理します。打診の順番そのものの考え方は「打診の順番をどう決めるか」を参照してください。

取引先が候補になる理由

仕入先・販売先が買い手として関心を持つ背景には、次のような事情があります。

  • 供給や販路を安定させたい:仕入の確保、あるいは出口の確保
  • 工程を自社に取り込みたい:外注していた工程を内製化し、納期や品質の管理を自社で行いたい
  • 担い手がいなくなることを避けたい:取引先が廃業すると、自社の事業にも影響が出る
  • 人材や設備を確保したい:自社では採用・調達が難しいものを、組織ごと引き受けたい

三つ目は、売り手にとって考えるきっかけになります。自社が事業を続けられなくなることは、取引先にとっても困る事態です。承継は自社だけの問題ではなく、取引先の事業の継続にも関わるという視点は、売り手が譲渡を前向きに捉える助けになることがあります。

また、取引先が買い手になる場合、事業の実態を既に知っているため、検討が早く進む傾向があります。品質、納期、対応力といった、資料では伝わりにくい部分を、日々の取引で体感しているからです。資料だけでは伝わらない価値が評価されるという点は、売り手にとって実利があります。

近い関係ゆえの注意点

一方で、取引関係があるからこその難しさがあります。打診の前に、次の点を売り手と共有してください。

起こり得ること備え
断られた後も日常の取引が続く辞退時の情報の扱いと、その後の接触の仕方を事前に決める
譲渡の検討を知られたことで、与信や取引条件の見直しが検討される検討の理由(承継の準備であること)を正しく伝える。担当者の共有範囲を確認する
日常の取引交渉と、譲渡の交渉が混ざる窓口と会議を分ける。取引条件は従来どおりの担当者間で進める
相手方の社内で、購買や営業の担当者にまで情報が広がる誰まで共有されるかを事前に確認し、範囲を限定してもらう
取引依存度が高い場合、交渉力に差が生じる他の候補にも打診し、比較できる状態を保つ

最後の点は重要です。売上の大半を一社に依存している場合、その相手だけに打診すると、売り手は条件を比べる材料を持てません。他の候補と並べて検討できる状態を保つことが、売り手の利益を守ります。一社に絞って進める判断をする場合でも、その意味を説明したうえで、売り手に決めていただいてください。

打診の前に決めておくこと

取引先への打診では、次の事項を事前に売り手と合意し、記録に残します。

  • 打診する相手方の部署と役職:購買や営業の担当者ではなく、経営層に直接届く経路を選ぶ。日常の取引担当者に先に伝わると、取引条件の話と混ざる
  • 相手方の社内での共有範囲:秘密保持契約を締結したうえで、誰まで共有されるかを確認する
  • 断られた場合の扱い:資料の破棄・返還を依頼し、記録を残す。以後こちらから接触しない
  • 取引への影響が出た場合の相談:与信や条件の見直しの話が出た際に、どう対応するかをあらかじめ話しておく
  • 他の候補への打診の継続:取引先と並行して、他の候補にも当てるかどうか

とくに一つ目は実務上の要点です。日常の取引窓口に打診の話が入ると、その担当者は自分の職務(仕入価格の交渉や与信の管理)の観点で受け取ります。承継の相談として受け取ってもらうには、経営の判断を担う立場の方に届く形で打診する必要があります。適切な経路が分からない場合は、売り手の経営者が直接、相手方の経営者に話を持ちかけるほうが確実なこともあります。その場合も、話す範囲と内容を事前に整理してから臨んでください。

取引条件と譲渡条件を混ぜない

検討が進んだ後の実務で、最も注意すべき点がこれです。譲渡の交渉が続く間も、日常の取引は続きます。この二つが混ざると、双方にとって良くない結果になります。

  • 窓口を分ける:譲渡の協議は経営層と仲介者、日常の取引は従来の担当者間で進める
  • 会議を分ける:同じ場で両方を話さない。議事録も分けて残す
  • 取引条件は従来の基準で決める:譲渡の交渉を理由に条件を動かさない。動かすなら、その理由を明確にする
  • 従業員に混乱が伝わらないようにする:現場の担当者は譲渡の検討を知らないことが前提。普段どおりの取引が続く状態を保つ

売り手にも、この線引きを説明しておきます。譲渡の協議中に取引条件で譲歩を求められたとき、関係を悪くしたくない気持ちから受け入れてしまうことがあるためです。二つの交渉は別のものであり、片方を理由にもう片方を動かす必要はないという認識を、早い段階で共有しておいてください。

また、譲渡が実現した場合の取引条件をどう扱うかも、条件の一部として協議の対象になります。承継後に取引が継続する前提であれば、その内容を確認しておくことが、事業の継続性を測る材料になります。

断られた後の関係を守る

辞退の連絡を受けたときの対応が、その後の取引関係を左右します。実務としては次のとおりです。

  • 速やかに資料の破棄・返還を依頼し、記録を残す
  • 辞退の理由は、相手の評価としてではなく事実として売り手に伝える
  • 他の候補に、取引先へ打診した事実を伝えない
  • 売り手が希望しない限り、こちらから改めて接触しない
  • 日常の取引に影響が出ていないかを、しばらくの間は売り手と確認する

売り手が受ける精神的な負担にも配慮してください。長く取引してきた相手に断られると、事業そのものを否定されたように感じることがあります。辞退の理由の多くは買い手側の事情(投資の時期、資金の予定、社内の優先順位)であり、事業の価値とは関係がないことを丁寧に伝えてください。

そして、断られた相手との取引が今後も続くという事実を、前向きに扱ってください。取引が続くということは、その会社にとって譲渡企業が必要な存在だということでもあります。承継先を他に探す過程で、その取引関係は譲渡企業の強みとして説明できる材料になります。

本稿は仲介実務の一般的な型を解説するものであり、個別案件における法的・税務的な判断は、弁護士・税理士等の専門家にご確認ください。

よくあるご質問

A.一律に避ける必要はありません。事業を理解している相手であり、承継後の取引も続きやすいため、売り手にとって有力な選択肢になり得ます。ただし、断られた後も日常の取引が続くため、打診の経路、社内の共有範囲、辞退時の扱いを事前に取り決めたうえで進めます。打診するかどうかは売り手が決める事柄です。
A.経営の判断を担う立場の方に届く経路を選んでください。日常の取引窓口に先に伝わると、仕入価格の交渉や与信の管理といった職務の観点で受け取られ、取引条件の話と混ざる恐れがあります。適切な経路が分からない場合は、売り手の経営者から相手方の経営者に直接話していただくほうが確実なこともあります。
A.その判断は慎重に行ってください。一社だけに打診すると、売り手は条件を比較する材料を持てません。他の候補にも並行して打診し、比較できる状態を保つほうが売り手の利益になります。一社に絞る場合でも、その意味を説明したうえで売り手に決めていただき、記録を残してください。
A.二つの交渉は分けて扱ってください。窓口と会議を分け、取引条件は従来の基準で判断します。譲渡の協議を理由に取引条件を動かす必要はありません。売り手が関係を気にして受け入れてしまわないよう、この線引きを早い段階で共有しておくことが実務上の要点です。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら