最終契約書のなかで、売り手にとって最も重い意味を持つのが補償条項です。表明保証や誓約事項に違反があった場合、その損害を金銭で埋め合わせる約束——それが補償です。会社を手放した後も、一定期間、売り手が責任を負い続けるという構造を作るのが、この条項にほかなりません。
だからこそ、補償を「負うか負わないか」ではなく、「どこまで負うか」という視点で読むことが重要になります。上限はいくらか。いつまで請求されるのか。少額の指摘まで対象になるのか。本稿では、売り手の責任を合理的な範囲に区切るための代表的な仕組みと、交渉で確認すべき点を整理します。
補償条項とは|表明保証を「お金」に換える仕組み
表明保証は「これらの事項は真実です」と約束する条項ですが、それだけでは、約束が破られたときにどうなるかが決まりません。その効果を定めるのが補償条項です。表明保証に違反があり、それによって買い手または対象会社に損害が生じた場合、売り手がその損害を補償する——この二つはセットで初めて機能します。表明保証の中身については「表明保証とは|M&A契約における売り手の責任範囲と補償」をご覧ください。
補償の対象になるのは、表明保証違反だけではありません。クロージングまでに売り手が行うと約束した事項(誓約事項)を履行しなかった場合や、契約で個別に特定された事項——たとえばDDで見つかった特定の税務論点や係争——についても、補償の対象として書き込まれることがあります。この個別の特定補償は、対象が明確なぶん、上限や期間の限定が外されたり緩められたりすることがあるため、注意が必要です。
売り手の立場から見ると、補償条項は「譲渡対価を受け取った後も、それが確定しない期間が続く」ことを意味します。受け取った金額の一部が、将来の請求によって戻っていく可能性がある。この不確実性をどこまで許容するかが、交渉の本質です。
なお、補償の設計は法務・税務の専門性が高い領域です。本稿でご紹介するのは一般的な考え方であり、実際の契約内容の検討にあたっては、必ず弁護士等の専門家のリーガルチェックをお受けください。
上限額(キャップ)|責任の天井をどこに置くか
売り手が負う補償責任の総額に上限を設けるのが、キャップと呼ばれる定めです。売り手にとって最も重要な限定であり、上限の定めがない契約は、理論上、受け取った対価を超える責任を負う可能性があることを意味します。
実務では、譲渡対価の一定割合を上限とすることが一般的です。その割合は、対象会社の規模、DDで把握されたリスクの多寡、当事者の交渉力によって変わります。リスクが少なく、資料も整っている会社であれば低めの上限で合意しやすく、逆に未整備な部分が多い会社では、買い手が高い上限を求める傾向があります。具体的な水準は案件によって大きく異なり、相場と呼べるものはありません。
キャップを検討する際に、あわせて確認したい点が三つあります。
ひとつめは、すべての事項に同じ上限が適用されるのかです。株式の保有や権限に関する表明(基本的表明)や、税務・反社に関する事項については、別枠の上限が設定されたり、上限の対象外とされたりすることがあります。
ふたつめは、何が上限の対象に含まれるのかです。損害の元本だけか、弁護士費用などの対応費用も含むのか。含まれる範囲が広ければ、実質的な上限は下がります。
みっつめは、複数の売り手がいる場合の負担の分け方です。株主が複数いる会社では、各自が持株比率に応じて個別に責任を負うのか、全員が連帯して責任を負うのかで、負担の重さがまったく変わります。少数株主として参加される方がいる場合は、特に確認が必要です。
請求期間|いつリスクから解放されるか
買い手が補償を請求できる期間を、クロージングから一定の期間に限定するのが請求期間(サバイバル期間)の定めです。売り手にとっては、この期間を過ぎればリスクから解放されるという意味を持つ、極めて重要な条項です。
期間の長さは、事項ごとに変えることが一般的です。財務や事業に関する一般的な表明は比較的短く、税務や労務のように後から顕在化しやすい分野は長めに、株式の保有や譲渡権限といった根幹に関わる事項はさらに長く、あるいは期間の制限を設けない、といった設計が見られます。
売り手として確認しておきたいのは、「請求」とは何を指すのかという点です。期間内に買い手が通知を出せばよいのか、それとも請求訴訟の提起まで必要なのか。前者であれば、期間の終わり際に形式的な通知を出すことで実質的に期間が延びることになります。通知に記載すべき事項(損害の内容、金額、根拠)が定められているかも、あわせて確認してください。
もう一点、期間の起算日にも目を通しておきましょう。クロージング日からなのか、契約締結日からなのか。サイニングとクロージングの間に期間がある取引では、この違いが実際の長さに影響します。
免責額(デミニミス/バスケット)|少額の指摘を切り分ける
どんな会社にも、細かな不備は存在します。それを一つひとつ補償請求の対象にしていては、双方にとって負担が大きすぎます。そこで置かれるのが、金額による足切りの仕組みです。二種類あります。
デミニミス(1件あたりの足切り)
1件の損害額が一定額に満たないものは、そもそも補償の対象にしないという定めです。少額の指摘が積み上がって請求されることを防ぎます。
バスケット(累計での足切り)
損害の累計額が一定額を超えて初めて請求できるとする定めです。ここには二つの型があり、どちらを採るかで売り手の負担が大きく変わります。
| 型 | 内容 | 売り手への影響 |
|---|---|---|
| 免責型(ディダクティブル) | 基準額を超えた部分だけが補償の対象になる | 基準額までは常に売り手の負担が生じない |
| 閾値型(ティッピングバスケット) | 基準額を超えたら、第1円目から全額が対象になる | 基準額をわずかに超えただけで、全額の請求を受ける |
契約書の文言だけを読むと、この二つは見分けにくいことがあります。「○○円を超える場合に限り、その超過額について」とあれば免責型、「○○円を超える場合には、その全額について」とあれば閾値型です。「超過額」か「全額」か——この数文字の違いが、実際の負担額を大きく左右します。契約書を確認する際は、必ずここを読み合わせてください。
なお、デミニミスやバスケットが適用されない例外事項(税務、反社、基本的表明など)が定められていることもあります。どの事項が例外なのかも、あわせて確認が必要です。
請求の実効性|相殺・エスクロー・保険
買い手にとっての関心は、補償を請求したときに実際に支払われるかどうかです。売り手が対価を受け取って引退し、資産の所在がわからなくなれば、契約上の権利があっても回収は容易ではありません。そのため、実効性を確保する仕組みが契約に組み込まれることがあります。
エスクロー(資金の留保)。譲渡対価の一部を第三者に預託し、補償請求期間が終わるまで解放しない仕組みです。売り手は受け取りが後ろにずれますが、期間満了後に問題がなければ全額が支払われます。
対価の分割払い・留保。エスクローを使わず、対価の一部の支払時期を後ろにずらし、補償が生じた場合に相殺できるようにする方法です。仕組みが簡素な一方、買い手の資力に依存する面があります。
アーンアウトとの相殺。業績連動の追加対価が設定されている場合、そこから差し引く建て付けが置かれることがあります。「アーンアウト条項とは|成果連動型の対価設計とその注意点」もあわせてご覧ください。
表明保証保険。補償負担を保険でカバーする仕組みで、かつては大型案件が中心でしたが、中小規模を対象とした商品も登場しています。保険料の負担や対象外となる事項がありますので、検討される場合は契約交渉の早い段階でご相談ください。
売り手として押さえておきたいのは、これらの仕組みは「いつ、いくら手元に入るか」を直接左右するという点です。譲渡対価の総額だけを見て判断すると、実際の受取時期が想定と違ってくることがあります。手取りと時期の見通しは、契約条件が固まる前に整理しておいてください。
まとめ|補償は「額」ではなく「輪郭」で見る
補償条項を読むとき、売り手が確認すべきは金額そのものよりも責任の輪郭です。上限はどこか。いつまでか。どこから対象になるのか。誰が、どう負担するのか。この四つが明確に描けていれば、譲渡後に抱える不確実性の大きさを具体的に把握できます。
逆に、輪郭が曖昧なまま署名してしまうと、成約から何年も経ってから、思いもよらない請求を受ける可能性が残ります。会社を手放した後の人生設計にも関わる話ですから、ここは時間をかけて確認する価値のある部分です。
そして、最も効果的な備えは、DDの段階で懸念事項を開示しておくことに尽きます。開示された事項は表明保証の対象から外れるか、価格に織り込まれるため、補償の対象にはなりません。「言いにくいこと」こそ先に伝える——補償条項の交渉を軽くする最短の道はここにあります。
当社プラチナパートナーズでは、最終契約の検討にあたり、提携する弁護士等の専門家と連携して、譲渡企業様のお立場から条項の調整をお手伝いしています。相談料・着手金・月額報酬は0円です。契約書の条項にご不安をお持ちの方も、どうぞ安心してご相談ください。