事業譲渡では、従業員の労働契約を買い手へ移すために一人ずつの同意が要ります。ここは法律の手続きであると同時に、経営者が最後に果たす説明責任でもあります。何を決めてから話すのか、何を書面にするのか。段取りの順番が、結果をほとんど決めます。
なぜ個別の同意が必要なのか
民法625条1項は、使用者は労働者の承諾を得なければ、その権利を第三者に譲り渡すことができないと定めています。事業譲渡によって雇い主が別の法人に変わることは、この「譲り渡し」にあたります。したがって会社が一方的に決めることはできず、本人が同意して初めて労働契約が移ります。
入社時の誓約書に「会社の命じる転籍に従う」といった条項があっても、それだけで有効な同意とは扱われないのが一般的な理解です。転籍先が具体的に定まり、労働条件が示されたうえでの個別の同意が求められます。
この構造を理解しておくと、なぜ条件が固まる前に打診してはいけないのかが分かります。示すべき条件がない状態で同意だけ求めても、有効な同意にはなりにくく、何より本人が判断できません。
先に決めておくべき五つの条件
説明の場に立つ前に、買い手と合意しておきたい条件は次の五つです。
給与と手当。基本給だけでなく、住宅手当や家族手当といった会社ごとの手当まで含めて、手取りがどう変わるかを示せる状態にします。役職と職務。肩書きが変わるのか、担当が変わるのか。勤務地。事業所が移転する予定があるなら、その時期も含めて。
勤続年数の通算。これは法律上当然には引き継がれません。買い手が通算を認めるかどうかで、有給休暇の付与日数も退職金の計算も変わります。有給休暇の残日数。転籍時点の残日数を買い手が引き継ぐのか、譲渡会社で買い取るのか、消化してもらうのか。
この五つが決まっていれば、説明の場で出る質問のほとんどに答えられます。
退職金をどう処理するか
退職金は、転籍の場面でもっとも金額が大きく、もっとも揉めやすい論点です。処理の仕方は大きく二つあります。
一つは、譲渡会社で一度精算する方法です。転籍の時点で自己都合か会社都合かを決めて支給し、買い手では勤続年数ゼロから再スタートします。従業員にとっては現金が入りますが、退職所得控除の勤続年数が切れるため、将来の税負担が変わる可能性があります。
もう一つは、買い手が勤続年数を通算して引き継ぐ方法です。従業員にとっては将来の退職金が守られますが、買い手は引当の負担を負うため、その分が譲渡価格の交渉材料になります。
どちらが正しいということはありません。ただ、どちらにするかを決めないまま説明の場に臨むことだけは避けてください。必ず聞かれます。
説明の順番と、渡す書面
実務では、全体への説明の前に、部門長や長く勤めている数名に個別に伝えることが多くあります。彼らが納得していないまま全体説明を行うと、その場の空気が決まってしまうためです。
全体への説明では、買い手の経営者に同席してもらうことをお勧めしています。「どういう人が引き継ぐのか」は、条件表よりも雄弁に安心を伝えます。
そして、口頭だけで終わらせないこと。労働条件を書いた書面を渡し、持ち帰って考える時間を置きます。その場で同意書に署名を求めるような進め方は、後から同意の有効性を争われる余地を残しますし、何より信頼を損ないます。数日から一週間の検討期間を設け、個別の質問を受ける窓口を用意してください。
同意が得られなかったとき
同意しない従業員の労働契約は、譲渡会社に残ります。事業は移ったのに人だけが残るという状態です。
この場合の選択肢は限られます。譲渡会社に別の事業があればそこで働いてもらう。なければ、本人と協議のうえで退職の条件を決めることになります。同意しなかったことを理由に不利益な扱いをすることはできません。
だからこそ、同意が得られる状態をつくることが実務の中心になります。条件を整え、説明を尽くし、それでも移らないという判断を尊重する。ここを雑に扱った案件は、たとえクロージングできても、譲渡後に買い手との関係がこじれます。
社会保険と雇用保険の切り替え
転籍に伴い、健康保険・厚生年金保険は譲渡会社で資格喪失、買い手で資格取得の手続きが必要です。雇用保険も同様に、被保険者資格の喪失と取得を行います。
雇用保険については、事業主が変わっても被保険者期間が通算される取り扱いがあるため、届出の際に転籍である旨を正しく伝えることが大切です。手続きの漏れは、本人の保険証や将来の給付に直接影響します。
日程が決まった段階で、社会保険労務士に工程を共有しておくと安全です。転籍日を月末にするか月初にするかで保険料の負担月が変わるため、ここも早めに決めておきたい点です。