「会社を譲ったら、従業員はどうなるのか」。ご相談のなかで、価格の次に多いご質問です。答えは選ぶ方法によってまったく違います。株式譲渡・事業譲渡・会社分割の三つで、労働契約の扱いは根本から変わります。ここを理解しておくと、従業員への説明もぶれません。

株式譲渡なら、労働契約はそのまま続く

株式譲渡では、雇い主である会社そのものは何も変わりません。変わるのは株主だけです。したがって従業員と会社の労働契約は、何の手続きもなくそのまま続きます

雇用契約書を結び直す必要はありません。勤続年数も、有給休暇の残日数も、退職金規程上の勤続期間も、すべて継続します。就業規則も、変更の手続きを踏まない限りそのままです。

従業員の同意を取る法的な必要もありません。もっとも、これは「黙っていてよい」という意味ではありません。株主が変わり、経営者が代わることは、働く人にとって大きな出来事です。いつ、誰が、どこまで話すかは、法律の問題ではなく信頼の問題として設計する必要があります。伝え方については従業員にいつ伝えるかで詳しく扱っています。

事業譲渡は、一人ずつの同意が要る

事業譲渡では、労働契約を買い手の会社へ移すことになります。これは使用者が変わる転籍にあたるため、労働者本人の個別の同意が必要です(民法625条1項)。会社が一方的に決めることはできません。

同意が得られなかった従業員の労働契約は、譲渡会社に残ります。事業だけが移って人が残るという事態は、売り手にとっても買い手にとっても望ましくありません。

だからこそ実務では、条件面の設計が先に来ます。給与、役職、勤務地、勤続年数の通算、有給休暇の引き継ぎ、退職金の計算。これらを買い手と詰め、「移っても不利にならない」と言える状態をつくってから説明に入ります。順序を間違えると、説明の場で答えられない質問が出て、不信感だけが残ります。

会社分割には、法律で決められた手続きがある

会社分割の場合は、労働契約承継法(会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律)という専用の法律があります。事業譲渡と違い、一定の手続きを踏めば、個別同意がなくても労働契約が承継されます

その代わり、法律が定める手続きは厳格です。分割する事業に主として従事している労働者への書面による通知、労働者との協議、労働者の理解と協力を得る努力。承継されることに異議がある労働者、逆に承継されないことに異議がある労働者には、それぞれ異議申出の機会が与えられます。

手続きを怠った場合、承継の効力自体が争われることがあります。会社分割を選ぶなら、この手続きの日程を工程表の中心に置いてください。

「移った後に条件を下げる」はできるのか

買い手から「譲渡後に給与体系を統一したい」という要望が出ることがあります。ここで押さえておきたいのは、労働条件の不利益変更には制約があるということです。

労働契約法は、就業規則の変更によって労働条件を不利益に変更する場合、変更の必要性、内容の相当性、労働組合等との交渉の状況などを踏まえた合理性を求めています。個別の合意による変更であっても、自由意思に基づくものと認められる事情が必要とされます。

売り手としては、ここを曖昧にしたまま引き渡さないことが大切です。「当面は条件を変えない」という約束を最終契約に書き込むか、どの範囲までなら変更があり得るのかを合意しておく。従業員に「変わらない」と説明したのであれば、その説明を裏づける取り決めが要ります。

社会保険・労働保険の手続き

株式譲渡では、事業所としての届出に変更は生じません。代表者が変わる場合に、その変更の届出を行う程度です。

事業譲渡や会社分割で従業員が別法人に移る場合は、資格喪失と資格取得の手続きが必要になります。健康保険・厚生年金保険、雇用保険のいずれも、移る日を境に処理します。手続きの漏れは、本人の保険証や失業給付の扱いに直結するため、日程を決めた段階で社会保険労務士と工程を共有しておくと安全です。

あわせて、労働保険の年度更新や、就業規則の届出先が変わることにも注意してください。統合後の人事の論点は人事制度の統合でも扱っています。

※ 本稿は一般的な考え方をご紹介するものであり、個別の法務・税務アドバイスではありません。実際の手続や課税関係は、会社の状況や契約の定めによって異なります。弁護士・税理士等の専門家にご確認ください。

説明の順番を、法律ではなく信頼で決める

どの方法を選んでも、最後に残るのは「いつ、誰から、どう伝えるか」という問題です。法律上の義務がない株式譲渡でも、伝え方を誤れば人は辞めます。

実務では、まずキーマンと呼べる数名に、成約が見えた段階で個別に伝えることが多くあります。全体への発表は、買い手の経営者が同席できる日に設定し、その場で「何が変わらないか」を先に話します。給与、勤務地、役職、就業規則。変わらないものを先に並べてから、変わり得るものを話す。この順番だけで、受け止め方は大きく変わります。

そして、経営者本人の口から話すこと。アドバイザーが代わりに説明する場面もありますが、なぜこの決断をしたのかだけは、本人の言葉でなければ届きません。従業員への伝え方はこちらの記事で詳しく扱っています。

よくあるご質問

A.必要ありません。雇い主である会社が変わらないため、労働契約はそのまま継続します。勤続年数も有給休暇も引き継がれます。ただし、代表者の変更に伴う社内規程上の記載や、社会保険の代表者変更の届出は必要になる場合があります。
A.条件面が固まってからです。給与・役職・勤務地・勤続年数の通算・退職金の扱いを買い手と合意し、質問に答えられる状態をつくってから説明に入ります。条件が決まる前に打診すると、答えられない質問が出て不信感につながります。
A.労働契約承継法の手続きを正しく踏めば、個別同意がなくても承継されます。ただし、書面による通知、協議、異議申出の機会の付与といった手続きが法律で定められており、これを怠ると承継の効力が争われることがあります。手続きの省略はできません。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら