本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。初回面談を終え、資料を預かり、方向性が見えてきた。ここで行うのが案件化——個人が持っている相談を、会社の案件として扱い始める手続きです。この移行を曖昧にしている会社は多く、そのせいで「担当者しか状況を知らない」「引き継ぎができない」「情報の管理範囲が不明確」といった問題が起きます。本稿では案件化の判断と、社内共有の型を書きます。受託の可否そのものは「受託するかどうかの判断基準」を参照してください。
「相談」と「案件」を分ける意味
案件化には三つの意味があります。第一に、会社として責任を持つという宣言です。案件化した以上、担当者個人ではなく組織として最後まで支援する。第二に、資源を割り当てるということ。時間、人員、専門家の手配。案件化していないものに資源は付きません。第三に、情報の管理を切り替えること。個人のメモから、権限管理された案件フォルダへ移します。
逆に言えば、案件化していない相談は会社として動かないことになります。ここが曖昧だと、担当者が一人で抱え込み、進捗が見えず、退職や異動で情報が消える。この状態が最も危険です。相談を受けた時点で台帳に登録し、案件化の判断を段階として明示する——この二段構えが基本です。
なお、案件化と受託は別の概念です。案件化した後に受託の判断があり、両方を通ってはじめて本格的に動き始めます。会社によって定義は異なりますが、自社の定義を明文化しておくことが大切です。定義がないと、会議で議論が噛み合いません。
案件化の判断要件|六つのチェック
| 要件 | 確認するポイント |
|---|---|
| 1. 意思の所在 | 譲渡を検討する意思が、決定権を持つ本人にあるか。周囲が動かしているだけではないか |
| 2. 前提の確認 | 反社会的勢力との関与の確認、他社との専任契約の有無 |
| 3. 対象の輪郭 | 会社の基本情報、事業内容、直近の決算の概略が把握できているか |
| 4. 実現可能性 | 買い手の想定ができるか。できない場合、その理由は解消可能か |
| 5. 阻害要因 | 株主の分散、不動産、保証、係争など、止まりそうな論点の有無と見通し |
| 6. 体制 | 担当できる人員、必要な専門家、想定される期間 |
ここで重要なのは、すべてが揃っていなくても案件化してよいということです。むしろ、阻害要因があるからこそ組織で扱うべき場合が多い。案件化の判断は「進めるかどうか」ではなく「会社として関与するかどうか」です。宿題が多い案件ほど、早く共有してください。
一方、1と2に問題がある場合は案件化しません。本人の意思が確認できていない、他社と専任契約が有効に存続している、反社の疑いが払拭できない——これらは前提の問題であり、進め方の工夫では解決できません。
共有資料の書き方|事実と所感を分ける
案件化のために作る資料は、A4で二枚から三枚。読み手は上長と、案件会議の参加者です。もっとも大切な原則は、事実と所感を分けて書くことです。
- 事実:資料や本人の発言で確認できること。出典を添える。「株主は本人90%・弟10%(株主名簿による)」「前期売上4億2千万円(決算書)」
- 説明:本人がそう述べたこと。「前期の減収は大口先の投資凍結によると社長は説明」
- 所感:担当者の見立て。「弟の同意は得られる見込みと考えるが、未確認」
- 未確認事項:分かっていないこと。誰に、いつ、どう確認するかまで書く
この四つを混ぜて書いた資料は、必ず誤解を生みます。特に危険なのが、所感が事実として伝播することです。「弟の同意は取れている」と会議で認識され、打診が進み、後で覆る——実際に起きる事故です。
資料の構成
- 案件の入口(紹介元、初回接触の経緯、日付)
- 会社の概要(基本情報、事業内容、拠点、従業員)
- 数字(3期の推移、資産と負債の概略、実質収益力の見立てと根拠)
- 資本構成(図で。誰が何%、議決権、同意の状況)
- オーナーの意向(きっかけ、時期、譲れない条件、譲渡後の関与、家族の状況)
- 論点と宿題(阻害要因、誰がいつまでに何をするか)
- 買い手の仮説(どういう先が関心を持ちそうか、その理由)
- 未確認事項と、次のアクション
会社概況の整理そのものは「会社概況の初期整理」に、資本構成の書き方は「資本構成の確認」にまとめています。会議での使い方は「社内案件会議の進め方」を参照してください。
誰が見られるか|閲覧範囲の設計
案件化は情報を広げる行為でもあります。同時に管理を締める設計が要ります。
- 閲覧範囲を明示する:担当者、上長、案件会議の参加者、管理部門。誰が見られるかを案件ごとに決める
- 社名の扱いを段階で分ける:会議資料では実名、共有の一覧では案件コードのみ、といった運用も有効です
- 個人情報を必要最小限に:従業員名簿の氏名など、初期には不要な情報を持ち込まない
- 持ち出しのルール:私物端末に保存しない、社外での閲覧環境を制限する
- アクセスの記録:誰がいつ見たかが分かる状態にしておく
- 案件終了時の扱い:受託しなかった場合、成約した場合、それぞれの保管期間と廃棄の方法を決める
オーナーには、案件化にあたって社内で共有する範囲を説明してください。「当社では、担当者一人で抱えず、限られた範囲で情報を共有して進めます」と伝えると、多くの場合むしろ安心されます。黙って共有するのではなく、共有の事実と範囲を伝えるのが誠実な運用です。秘密保持の説明全般は「初回面談で秘密保持をどう説明するか」に、社内ルールは「秘密保持の運用実務」にまとめました。
引き継ぎ|担当が代わっても失われない形にする
案件化の最終目的は、担当者が代わっても案件が続く状態を作ることです。異動、退職、病気。どれも起こり得ます。引き継ぎに耐える情報の形を、日常的に維持してください。
- 時系列の記録:いつ、誰と、何を話し、何を決めたか。面談・電話・メールの要点を残す
- 約束の一覧:オーナーに伝えたこと、依頼したこと、期限。これが最も引き継ぎで抜けます
- 資料の所在:何を受け取り、どこに格納したか。版管理の状態(「受領資料の整理術」参照)
- 人間関係のメモ:誰が意思決定に影響するか、触れてはいけない話題、家族の状況。事実として書ける範囲で
- 未確認事項と次のアクション:これがあれば、後任は翌日から動けます
引き継ぎで最も価値があるのは、オーナーに伝えた内容の記録です。前任者が説明した条件や見通しと、後任の説明が食い違うと、それだけで信頼が崩れます。面談後に要点をメールで確認する習慣を持っていれば、この記録は自動的に残ります。
そして引き継ぎの際は、必ずオーナーへの挨拶を対面で行い、前任者から経緯を説明してもらってください。書類だけの引き継ぎは、相手にとって「担当が消えた」のと同じです。案件は情報の束であると同時に、人との関係でもあります。両方を引き継いで、はじめて引き継ぎが完了します。パイプライン全体の管理は「案件パイプライン管理の実務」を参照してください。