本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。新人が最初に覚えるべきなのは案件の取り方ですが、二番目に覚えるべきは断り方です。受託は成果に見えるので、若いうちほど何でも受けたくなる。しかし進まない案件を抱えることは、オーナーの時間を奪い、自分の時間を溶かし、会社の信用を削ります。本稿では、受託の可否をどう判断し、どう断り、どう関係を残すかを書きます。契約形態と説明責任は「専任と非専任の違い」を併せてお読みください。
なぜ「断る力」が実力なのか
理由は三つあります。第一に、仲介者の資源は時間だけだからです。一件の案件に半年から一年以上かかることは珍しくありません。成立の見込みが低い案件を抱えれば、その分だけ他の依頼者への支援が薄くなります。
第二に、受けた以上は最後まで責任があるからです。途中で「やはり難しい」と手を引くことは、オーナーにとって最悪の結果です。時間を失い、期待を裏切られ、場合によっては情報だけが広がった状態で放り出される。受託は約束であり、約束できないなら最初から受けない。
第三に、断ることでしか守れない誠実さがあるからです。中小M&Aガイドライン(第3版・令和6年8月)も、支援機関に対して依頼者の利益を優先する姿勢を求めています。成立見込みが薄いと分かっていて受託し、費用や期待だけを生じさせるのは、その趣旨に反します。
付け加えると、断った案件が戻ってくることは頻繁にあります。条件が整った、株主関係が片づいた、時期が来た——そのときに真っ先に思い出してもらえるのは、誠実に断った相手です。
受けてはいけない案件
次に該当する場合、当社は受託しません。例外を作らないことが大切です。
| 類型 | 理由 |
|---|---|
| 他社と専任契約が有効に存続している | 契約違反を誘発する。ガイドラインの趣旨にも反する |
| 反社会的勢力との関与が疑われる | 確認は受託前の必須手続。疑いが払拭できない限り進めない |
| 粉飾や虚偽の説明が前提になっている | 買い手を欺く行為に加担することになる。訂正に応じないなら受けない |
| 譲渡の意思決定権がない人からの依頼 | 株主でも代表でもない親族からの依頼など。本人の意思が確認できないまま進めない |
| 目的が不当 | 債務の整理逃れ、特定の相手への嫌がらせ、情報の探索だけが目的と見られる場合 |
| 法令上の制約が解けない | 許認可上、譲渡そのものが実現できない構造になっている場合 |
粉飾については補足が必要です。中小企業の決算には、意図的でない誤りや、税務上の処理と実態の乖離が含まれていることがあります。これらは訂正・説明すれば足りる話で、直ちに受託不可ではありません。問題は、買い手に事実と異なる説明をすることをオーナーが望む場合です。そこは一線であり、譲れません。判断に迷ったときの拠り所は「M&Aアドバイザーの職業倫理」にまとめました。
条件を付けて受ける案件|先に片づける宿題
多くの案件は白か黒かではなく、「このままでは難しいが、先に整理すれば進む」という灰色です。この場合、宿題を明示して条件付きで受けます。
- 株主が分散している:所在不明株主、名義株、相続で分かれた株式。集約の見込みと手順を先に確認する(「資本構成の確認」参照)
- 事業用不動産がオーナー個人の所有:譲渡後の賃貸借か、同時売買か。方向性の合意を先に取る
- 親族の合意が未了:配偶者や子が株主・役員である場合、合意形成の順番を決めてから動く
- 決算数値が実態と乖離:役員関連取引や個人資産の混在を整理し、実質的な収益力を説明できる状態にする
- 係争・簿外の懸念がある:内容と見通しを弁護士に確認したうえで、開示の方針を決める
- 希望条件が現実と大きく離れている:期待値の調整が付かないうちは動かさない(「期待値調整の技術」参照)
条件付き受託の要点は、宿題を口頭で済ませないことです。何を、誰が、いつまでにやるかを書面にし、双方で確認する。曖昧なまま走り出すと、買い手への打診の直前で止まり、最も高くつきます。
判断を急がず保留する案件と、社内の決め方
三つ目の類型が「まだ判断しない」です。オーナーの意思が固まっていない、社内の事情で動ける時期でない、事業の数字がこれから変わる見込みがある。こうした場合、無理に受託せず、関係だけを維持して時期を待つのが正解です。長期の関わり方は「長期フォローの設計」に整理しています。
社内での決め方
受託判断を担当者一人でしないでください。当社では案件会議に上げ、次の観点で議論します。
- 実現可能性:買い手が想定できるか。想定できないなら、その理由は何か
- 阻害要因:止まりそうな論点は何か。事前に潰せるか
- オーナーの意思:意思決定の主体と、周囲の合意状況
- 体制:担当できる人員と、必要な専門家の手当て
- コンプライアンス:反社確認、他社契約、法令上の制約
- 受けない場合の代替案:オーナーに何を案内できるか
担当者が「取りたい」と思っている案件ほど、第三者の目が要ります。会議に上げる資料の作り方と、事実と所感を分ける書き方は「案件化の判断と社内共有」「社内案件会議の進め方」を参照してください。
断り方の作法と、断った後に残すもの
断り方には型があります。次の順で伝えてください。
- 結論を先に、短く:「今回は当社ではお引き受けしないという判断になりました」。曖昧にぼかすほうが不誠実です
- 理由を、相手を否定しない言葉で:「会社に問題があるから」ではなく、「現時点では当社の体制で十分な支援ができないため」「株主関係の整理が先に必要と考えるため」
- 次の一歩を添える:いま準備しておくとよいこと、相談すべき専門家の種類。可能な範囲で具体的に
- 扉を閉じない:状況が変わったら改めて相談してほしい、と伝える
- 紹介元にも報告する:紹介案件なら、受託しなかったことと理由の概略を伝える(「紹介案件の受け方」参照)
- 受領資料を処理する:返却または廃棄し、その事実を伝える。ここまでが断る作業です
避けるべきは、返事をしないまま自然消滅を待つことです。連絡を絶たれた側は、断られた以上に傷つきます。そして業界内でその評判は残ります。
最後に、断った案件も記録に残してください。断った理由、そのとき伝えた宿題、次に確認すべき時期。半年後、一年後に「その後いかがですか」と連絡できる状態を作っておく。断ることは関係の終わりではなく、条件が整うまでの一時停止です。この理解を持てるようになると、受託判断で迷わなくなります。断られた側の心理と次への活かし方は「断られた後の対応」にも書きました。