本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。長く仕事をしていれば、苦情やトラブルは必ず経験します。「聞いていた条件と違う」「連絡が遅い」「勝手に進められた」——内容はさまざまですが、その後の展開を決めるのは、ほぼ最初の30分です。ここで慌てて言い訳をするか、事実確認の手順に入れるかで、同じ事案が小さく収まることも、大きな紛争になることもあります。ここでは初期対応の型を書きます。記録の運用は「面談・電話の記録の残し方」を前提としています。
初期対応で、その後のすべてが決まる
苦情を受けたとき、人は反射的に自分を守ろうとします。「そのときこう申し上げたはずです」「資料はお送りしています」。この反応が、事態を悪化させます。相手は事実の是非を争いたいのではなく、多くの場合軽く扱われたと感じています。まず必要なのは反論ではなく、受け止めです。
初期対応の目的を三つに定めてください。
- 相手の話を最後まで正確に把握する:途中で遮らない。要約して確認する
- 事実を確定する準備をする:何が起きたと言われているのかを、時系列で書き取る
- 次の連絡の期日を約束する:結論ではなく、いつ回答するかだけを約束する
この三つを外さなければ、その場で結論を出さなくても、相手は「対応されている」と感じます。逆に、結論を急いで誤った内容を約束すると、後で撤回することになり、二度目の不信を招きます。
受けた直後の30分|聞く・記録する・約束しない
聞く
- 遮らずに最後まで聞く。反論は一切しない
- 相手の言葉で要約して返す:「◯月の面談で伺った条件と、今回のご提示が違うということですね」
- 不快な思いをさせたことについてはお詫びを述べる。ただし、事実関係が未確認の段階で責任や過失を認めない
- 「いつ・誰から・何を」を具体的に確認する。抽象的な不満のままにしない
記録する
- その場で、あるいは通話直後にメモを取る。相手の表現をできるだけそのまま残す
- 日時、手段、相手、申し立ての内容、相手が求めていること、こちらが述べたことを記録する
- 自分の所感は別欄に分ける。事実と混ぜない
約束しない
その場でしてはいけない約束を挙げます。
- 責任や過失を認める発言(「こちらのミスです」)
- 金銭に関わる約束(減額、返金、負担)
- 他方当事者の対応の約束(「先方に◯◯させます」)
- 期限のない約束(「すぐに対応します」)。必ず日付を入れる
正しい締めくくり方は一つです。「不快な思いをさせて申し訳ありません。事実関係を確認し、◯月◯日までにご回答します」。ここで約束した期日は、何があっても守ってください。守れないと分かった時点で、事前に連絡して延期を伝えます。
事実確認の手順|時系列・記録の突合・関係者確認
初期対応が終わったら、事実確認に入ります。手順は決まっています。
- 1. 時系列表を作る:申し立てに関係する出来事を、日付順に並べる。面談、電話、メール、資料の送付、契約の締結
- 2. 記録と突合する:面談記録、送信済みメール、共有資料の版と日付、契約書。記憶ではなく記録で確認する
- 3. 確認できることと、できないことを分ける:記録に残っていない事項は「なかった」ではなく「確認できない」と扱う
- 4. 関係者に確認する:同席者、上司、他方当事者の担当。ただし他方当事者への確認は、必要性と情報の扱いを上司と相談してから
- 5. 争点を特定する:何について認識が食い違っているのかを一文で書く。争点が特定できれば、対応は決まる
この過程で、自分に落ち度があったと分かることもあります。そのときに事実を曲げないでください。事実確認は自分を守る作業ではなく、正しい対応を決めるための作業です。落ち度があれば、認めて是正するほうが結果的に被害は小さくなります。
社内エスカレーションと、回答の作り方
苦情を受けたら、その日のうちに上司へ報告します。軽重を自分で判断しないでください。報告に含めるのは次の項目です。
- 申し立ての内容(相手の表現のまま)
- 相手が求めていること
- 時系列と、記録で確認できた事実
- 争点
- こちらの落ち度の有無についての見立て(事実と分けて)
- 約束した回答期日
回答は、担当者個人の判断で出さず、上司または管理責任者の確認を経てから出します。回答の構成は次の順です。
- 1. 受け止め:不快な思いをさせたことへのお詫び
- 2. 確認した事実:時系列で、記録に基づいて
- 3. 認識の相違点:確認できなかった点は、そう明記する
- 4. 当社の対応:是正すること、これから行うこと
- 5. 今後の進め方:案件をどう進めるか、連絡の頻度をどうするか
回答は口頭だけで済ませず、書面またはメールで残します。重大な事案や、法的な責任が問題になりうる事案では、社内規程に従って専門家に相談してください。判断を担当者が抱え込まないことが、組織としての基本です(「仲介実務のコンプライアンス」)。
再発防止と、謝るべきときに謝ること
対応が終わったら、必ず振り返ります。問うのは次の三点です。
- どこで防げたか:説明の不足か、記録の不足か、連絡の頻度か、期待値の設定か
- 仕組みで防げるか:個人の注意ではなく、手順や書式で防げる形にする
- 他の案件でも起きうるか:起きうるなら、社内で共有して型を直す
実務で多い原因は、能力不足ではなく連絡の間隔が空いたことと期待値を揃えていなかったことです。この二つは仕組みで防げます。定期連絡の枠を固定し、重要な説明の後は要点をメールで送る。それだけで苦情の多くは起きなくなります。
最後に、謝罪について。事実確認の前に責任を認めるべきではありませんが、確認の結果こちらに落ち度があったなら、率直に謝ることです。曖昧な表現でにじませるのではなく、何について、どう至らなかったかを述べる。そのうえで是正を示す。この順序を守れる人は、トラブルの後にかえって信頼されます。逆に、責任を薄めようとする言い回しは必ず伝わり、関係を決定的に損ないます。悪い知らせを運ぶ姿勢は「悪い知らせの伝え方」とも共通しています。