本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。M&Aの案件は、初回相談から成約まで半年から一年、長ければそれ以上かかります。その間に交わされる会話は膨大で、当事者の記憶は必ずずれます。「あのとき退職金は別だと聞いた」「引継ぎは3か月と言われた」——この食い違いは、契約直前や決済直前という最も高くつく時期に噴き出します。防ぐ手段は一つ、記録です。ここでは何を残し、いつ書き、どこまで共有し、どう保管するかを型にします。接触履歴の管理は「顧客管理と接触履歴の残し方」と併せて運用してください。
記録は、依頼者と自分の両方を守る
新人のうちは、記録を「上司に報告するための作業」と捉えがちです。実務での意味はもっと重く、次の三つを果たします。
- 依頼者を守る:合意した条件が後から変えられそうになったとき、記録が根拠になる
- 自分を守る:説明した・しないの争いになったとき、いつ何を説明したかを示せる
- 案件を守る:担当が交代しても、記録があれば案件は止まらない
三つ目は特に見落とされます。異動、退職、病気、繁忙——担当が変わる事情はいくらでもあります。記録がその案件の唯一の引き継ぎ資産になることを、最初から意識しておいてください。引き継ぎの実務は「担当交代の引き継ぎ」にまとめています。
何を残すか|事実・決定・宿題・期限
すべてを書き取る必要はありません。残すべきは次の項目です。
| 項目 | 内容 | なぜ必要か |
|---|---|---|
| 基本情報 | 日時、場所または手段、出席者(役職まで) | 誰が同席していたかは、後の争点になりやすい |
| 事実 | 相手が言ったこと。数字・条件・期限はそのままの表現で | 要約すると意味が変わる。条件に関わる発言は原文に近く残す |
| 決定事項 | その場で合意したこと | 後の食い違いを防ぐ中心。曖昧な表現は避け、主語を明確に |
| 宿題と期限 | 誰が何をいつまでに | 案件が止まる原因の大半は、宿題の所在が不明確なこと |
| 保留事項 | 結論を出さなかった論点 | 忘れられたまま契約直前に戻ってくるのを防ぐ |
| 所感(社内用) | 温度、力関係、気になった様子 | 次の打ち手の材料。ただし事実と必ず分ける |
書き方の原則は事実と所感を分けることです。「オーナーは乗り気」ではなく、「オーナーは『年内に方向性を決めたい』と発言(事実)。表情や質問の量から関心は高いと見た(所感)」。この区別ができていない記録は、後から読む人を誤らせます。
面談直後15分の型
記録は、面談が終わってから15分以内に書きます。翌日になると、細部が確実に落ちます。移動中でも、次の順で書けば15分で終わります。
- 1. 決定事項を先に書く(3分):合意したことだけを箇条書きにする
- 2. 宿題と期限を書く(3分):自分の宿題、相手の宿題、期限。ここが最も重要
- 3. 数字・条件に関わる発言を書く(5分):記憶が新しいうちに、言い回しごと残す
- 4. 保留事項を書く(2分):決まらなかったこと
- 5. 所感を1〜3行(2分):社内用の欄に、事実と分けて書く
面談中のメモの取り方も一つコツがあります。その場で読み上げて確認することです。面談の終わりに「本日決まったのは三点、宿題はこちらが二つ、御社が一つ、期限は◯日です」と口頭で確認すれば、記録の精度が上がるうえ、相手にも聞いている姿勢が伝わります。ヒアリング項目の設計は「ヒアリングシートの作り方」を参照してください。
電話も同じです。案件に関わる電話は、日時・相手・要点・決定・次のアクションの5行を必ず残します。条件や期限に関わる内容は、電話の後にメールで文字にして相手に確認する——これを習慣にすると、食い違いはほとんど起きなくなります。
共有する記録と、しない記録
記録は、目的によって二種類に分けます。最初から別の欄に書き分けてください。
- 共有用(当事者へ送る):決定事項、宿題と期限、保留事項、次回の日程。事実のみ。評価や推測は入れない
- 社内用:所感、温度、力関係、注意点、次の打ち手。共有用に書けないことをここに書く
共有用は、当日中に送るのが原則です。「本日の確認事項」として、決めたことと宿題だけを簡潔に送ります。この一通が、後の「言った言わない」をほぼ消します。相手から訂正が入れば、その時点で認識が揃うので、むしろ歓迎すべきことです。
気をつけるのは、社内用の内容が誤って共有用に混ざる事故です。同じファイルの中で欄を分けるより、ファイル自体を分けるほうが安全です。転送や誤送信を考えると、共有用の文書には他方当事者の内情や、こちらの評価を一切書かないのが鉄則です。メールの作法は「案件メールの書き方」に整理しています。
保管・社内共有・保存期間のルール
最後に、記録の置き場所です。個人のメモ帳やローカルのファイルに散らばっている記録は、組織にとって存在しないのと同じです。
- 案件フォルダに一元化する:記録は案件フォルダの決まった場所に置く。ファイル名は「日付_コード名_面談記録」の型で統一
- アクセス権を案件担当に限定する:社内でも、知る必要のある人だけが見られる状態にする(「案件情報の社内共有範囲」)
- 私物端末・個人アカウントに置かない:持ち出しは秘密保持の観点で最も危険な行為の一つ
- 保存期間を決める:案件終了後の保存期間と、破棄の方法を社内規程に沿って定める。秘密保持契約に返還・破棄の定めがある資料は、それに従う
- 週に一度、書けていない記録を埋める:棚卸しの時間に、空白の接触を確認する
記録は地味な仕事です。しかし、成約まで一年かかる案件を、途中で担当が変わっても、当事者の記憶が曖昧になっても、確実に着地させられるのは記録があるからです。派手さはありませんが、実務者としての力量が最も正直に表れるところでもあります。