M&Aの実務では、白黒のはっきりしない場面が定期的に訪れます。この情報をいつ、どちらに伝えるべきか。この案件は本当に依頼者のためになるのか。自分の報酬が判断に影響していないと言い切れるか。本稿は、そうした場面で立ち返るための判断基準を整理したものです。中小M&Aガイドライン(第3版・令和6年8月)が示す仲介者への要請の趣旨に沿いつつ、条文の逐条解説ではなく、現場の担当者が実際に使える形で書きます。当社のガイドライン遵守宣言そのものはこちらのページに掲載しています。

なぜM&A仲介に職業倫理が要るのか|構造から考える

倫理を「心構え」として語ると、忙しい現場では機能しません。まず、なぜこの仕事に倫理の議論が集中するのかを、構造として理解しておきます。理由は三つあります。

第一に、情報の非対称が大きいことです。依頼者である中小企業の経営者は、通常、生涯に一度しか会社を譲渡しません。一方、アドバイザーは何件も経験しています。相場観、手続の流れ、交渉の作法。すべてこちらが多く知っています。知識の差が大きい関係では、説明しないことが実質的に相手の判断を奪います。

第二に、取引が一回限りで、やり直せないことです。会社の譲渡は取り消せません。従業員の雇用、取引先との関係、経営者自身の生活。決まった後に「間違いでした」と言っても戻りません。

第三に、仲介という形態そのものが利益相反を内包することです。売り手と買い手の双方に関与する以上、両者の利害は必ずどこかで対立します。この構造は業界への批判の中心にもなってきました(「M&A仲介の両手取引とは」「M&A仲介は『やばい』のか」参照)。構造がある以上、個人の善意ではなく、明示された基準と運用で管理するほかありません。

2025年のM&A件数は5,000件超で2年連続の過去最多(レコフデータ)、後継者不在率は50.1%(帝国データバンク2025年調査)。件数が増えるほど、担当者一人ひとりの判断が社会に与える影響も増えます。倫理の議論が強まっているのは、業界が成熟の段階に入ったからです。

四つの原則|依頼者の利益・情報管理・誇張しない・報酬で歪めない

原則1|依頼者の利益を、自分の都合より先に置く

最も基本にして、最も守りにくい原則です。守りにくい理由は明快で、成約しないほうが依頼者のためになる場面が実際に存在するからです。譲渡以外の選択肢のほうが良いこともあれば、今は時期ではないこともあります。このとき、成約を前提に動いてきた自分の労力が判断に影響します。

実務的な歯止めは二つです。第一に、譲渡以外の選択肢(親族内承継、従業員承継、事業の継続や整理など)を初期に必ず提示し、記録に残すこと。第二に、途中で前提が変わったとき、「この案件は見送るべきではないか」を口に出す習慣を持つことです。言いにくいことを言うのが、この仕事の中核だと考えてください。

原則2|情報は、預かりものとして扱う

アドバイザーが預かるのは、決算書だけではありません。経営者の健康、家族の関係、従業員に知られていない事実、取引先との力関係。どれも、外に出れば会社と個人に実害が及びます。

情報管理は、契約書を結べば完了するものではなく、日々の動作です。誰に、いつ、何を、どの範囲で開示したかを記録する。社名を伏せていても地域・業種・規模の組み合わせで特定される危険を常に意識する。資料の保管と破棄の手順を決めておく。社外はもちろん、社内でも「知る必要のある人」に限る。具体的な運用は「秘密保持の運用実務」に整理しています。

原則3|誇張しない、断定しない

期待を持たせる言葉は、その場では喜ばれます。「もっと高く売れます」「すぐに買い手が見つかります」。しかし、根拠のない見通しは、依頼者の判断を誤らせ、後で必ず失望に変わります。

守るべき線は次のとおりです。第一に、確定していないことを確定した形で言わない。第二に、見立ては見立てとして述べ、根拠と前提を添える。第三に、出所の分からない数値(業界平均、相場倍率など)を自分の言葉で語らない。第四に、自社の手数料や条件を正確に説明する。たとえば当社の場合、相談料・着手金・月額報酬はいただかず、基本合意時に中間金(成功報酬額の10%。成功報酬から全額を差し引きますが、その後に不成立となっても返金はしません)、成約時に成功報酬(移動総資産レーマン方式、基準額は株式価値と負債総額の合計、最低2,000万円・税別)という体系です。不利な条件ほど、先に、はっきり伝える。これが誇張しないということの実務的な意味です。

原則4|自分の報酬のために、意思決定を歪めない

成功報酬型の報酬体系である以上、担当者の利益と依頼者の利益は完全には一致しません。ここを「一致しています」と言い繕うのではなく、一致しない部分があることを前提に運用を組むのが誠実な姿勢です。

歪みが表れやすいのは、次のような行動です。自分に有利な候補先を優先して提示する。価格の見立てを、成約しやすい方向に寄せて伝える。依頼者が迷っているときに、期限を実際より切迫して説明する。他の専門家への相談を暗に牽制する。いずれも、その瞬間は小さな判断に見えますが、依頼者の意思決定を奪う行為です。運用面の対策は「利益相反管理の実務」で詳述しています。

迷いやすい場面と、判断の型

原則を知っていても、現場では迷います。頻出する場面と、当社が置いている判断の型を示します。

迷う場面やってしまいがちな対応取るべき判断の型
売り手に不利な事実(簿外債務・係争など)を把握した買い手に伝えるタイミングを遅らせ、交渉が進んでから出す売り手に対し、開示しない場合の不利益(後の補償・破談・信用毀損)を説明し、開示の方法と時期を一緒に決める。隠したまま進めない
買い手候補から「他の候補の状況」を尋ねられた交渉を有利にするため、実際より競合が多いように示唆する他の候補に関する情報は、売り手の了解の範囲でしか出さない。存在しない競合を匂わせない
依頼者が判断を迷っており、期限が近い「今決めないと相手が離れます」と急がせる期限の根拠(相手方の意向、手続上の制約)を事実として示し、延長の可否も確認して伝える。迷う理由そのものを聞き直す
自分に紹介元がある買い手候補を提示したい関係性を伏せたまま、優先的に提案する関係性を依頼者に開示したうえで提示する。開示できない関係なら、その候補は使わない
依頼者が専門家への相談を検討している「話が複雑になる」と婉曲に止める専門家への相談を歓迎し、必要なら資料の提供に協力する。相談を妨げない
成約が見込めない案件に時間を使っている報酬にならないため、連絡が疎になる見込みを正直に共有し、続けるか一度止めるかを依頼者と決める。放置しない
自分のミスで依頼者に不利益が生じた表面化する前に取り繕う直ちに上長に報告し、依頼者に事実と影響、対応策を伝える。隠す判断は必ず後で大きくなる

表の右列に共通しているのは、「伝える」「開示する」「一緒に決める」という動作です。倫理的な判断とは、多くの場合、難しい理屈ではなく、面倒だが正しい手順を省かないことに尽きます。

迷ったときに立ち返る五つの問い

それでも判断がつかないとき、次の五つを順に自分に問うてください。若手にはこの五問を暗記してもらっています。

判断に迷ったときの五つの問い

  • 依頼者に、そのまま説明できるか。今からしようとしている判断を、依頼者本人の前で理由まで含めて話せるか
  • 記録に残せるか。この対応を、日時と内容を明記して社内の記録に書けるか。書けないなら、やるべきではない
  • 報酬がゼロでも同じ判断をするか。自分の報酬が一切変わらないとしたら、同じ助言をするか
  • 相手が自分の家族でも同じ助言をするか。親しい人に同じ条件で同じ勧め方をするか
  • 三年後に振り返って、説明できるか。案件が終わった後、この判断を第三者に説明して恥ずかしくないか

五問のうち一つでも「いいえ」があるなら、その場で決めず、上長に相談してください。迷いを一人で処理しないことそのものが、倫理の実践です。特に二番目の「記録に残せるか」は強力な判定装置で、記録に書きたくない対応は、ほぼ例外なく問題を含んでいます。

本稿は当社の実務上の考え方を一般的に述べたものです。個別の案件における法務・税務の判断は、必ず弁護士・税理士等の専門家にご確認ください。

個人の良心に頼らない|組織で支える仕組み

倫理を個人の資質の問題にすると、必ず破綻します。忙しさ、評価への不安、目標への圧力。人は状況によって判断が変わるからです。だからこそ、組織側に仕組みが要ります。

  • 案件の記録を、担当者以外が見られる状態にする。属人化した案件は、外から異常に気づけません
  • 不利な情報の報告を、評価上マイナスにしない。悪い報告が上がらない組織は、遅れて大きな問題を抱えます
  • 成約件数だけを評価しない。説明の丁寧さ、記録の質、依頼者への連絡の頻度を評価対象にする
  • 迷いを相談できる相手を明示する。「誰に相談すればよいか分からない」状態が、最も危険です
  • 契約前の説明と書面交付を、手順として固定する。担当者の裁量に委ねず、必ず同じ手順で行う(ガイドライン第3版の実務対応参照)
  • 案件の見送りを、正当な結論として扱う。止める判断ができる組織だけが、依頼者に誠実でいられます

会社を選ぶ側の視点でも、これらが備わっているかは重要な判断材料になります。依頼者向けに書いた「M&A仲介会社の選び方」の観点は、働く場所を選ぶときにもそのまま使えます。

まとめ|倫理は制約ではなく、仕事を続けるための土台

M&A仲介に倫理が求められるのは、情報の非対称が大きく、取引がやり直せず、仲介という形態が利益相反を内包しているからです。立ち返るべき原則は四つ。依頼者の利益を自分の都合より先に置くこと、情報を預かりものとして扱うこと、誇張せず断定しないこと、自分の報酬のために意思決定を歪めないこと。迷ったときは、依頼者に説明できるか、記録に残せるか、報酬がゼロでも同じ判断か、家族にも同じ助言をするか、三年後に説明できるか、という五つの問いに戻ってください。そして、迷いを一人で抱えないこと。倫理は仕事を制約するものではなく、この仕事を長く続け、依頼者から選ばれ続けるための土台です。

よくあるご質問

A.「どちらにも肩入れしない」という意味の中立を掲げるだけでは足りません。必要なのは、双方に対して同じ事実を、同じ精度で、同じ時点で伝えることと、その運用を記録に残すことです。片方にだけ有利な情報を先に渡さない、価格の見立てを一方に誘導しない、伝えた内容と時期を残す。仲介であることは契約前に明示し、専門家への相談を妨げない。こうした具体的な動作の積み重ねでしか、双方への誠実さは担保できません。
A.まず、自分の懸念を事実の形で言語化し、記録に残したうえで上長に伝えてください。感情や印象ではなく、「この情報を伝えていないと、依頼者が誤った前提で判断する」という具体的な形にすると議論が成立します。そのうえで、依頼者に不利益が生じる、または説明義務に反する内容であれば、組織の方針であっても従うべきではありません。そうした場面が繰り返し起きる環境なら、自分がどこで働くかを考え直す判断も必要になります。
A.そのまま伝えてください。伝え方の型は、第一に事実を並べる、第二に自分の見立てを見立てとして述べる、第三に決めるのは依頼者であると明示する、の三段階です。「この条件では従業員の雇用維持が難しくなる可能性があります。私の見立てでは、今回は見送り、体制を整えてから再検討されるほうが良いと考えます。ただし、決めるのは社長です」。成約しないことを提案できるかどうかは、アドバイザーの信頼を最も左右する場面です。

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当社は少人数のファームで、記録と説明を手順として固定し、見送りの判断も正当な結論として扱っています。この考え方に共感される方は採用情報を、事業承継・会社売却をご検討の経営者様は無料相談を、それぞれご覧ください。
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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら