本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。「EBITDAに倍率を掛けたら株式価値が出る」——新人アドバイザーがまず覚える近道ですが、実務ではその間にネットデット(純有利子負債)の控除という工程が挟まります。ここを雑にやると、買い手に提示した数字が後から数千万円単位で動き、売り手の信頼を失います。しかも中小企業には、借入金として貸借対照表に載っていない「借金のような負担」が数多く潜んでいます。本稿では、ネットデットの考え方、拾うべき項目、現預金の扱い、基準日の決め方、そして売り手への説明までを実務の順序で整理します。
ネットデットとは|事業価値と株式価値をつなぐ橋
倍率評価で最初に出てくる数字は、多くの場合事業価値(EV)です。事業価値は「その事業が生み出す価値」であり、その事業を誰が資金提供して支えているか(銀行なのか株主なのか)を問いません。一方、売り手のオーナーが受け取るのは株式価値(譲渡対価)です。この二つをつなぐのがネットデットで、関係はきわめてシンプルです。
- 株式価値 = 事業価値 − ネットデット(+ 非事業用資産)
- ネットデット = 有利子負債(デットライク項目を含む) − 余剰現預金
この式が意味するのは、同じ収益力の会社でも、借入が多ければオーナーの手取りは小さくなるということです。逆に、無借金で現金を厚く持つ会社は、事業価値が同じでも株式価値が大きくなります。新人がオーナーに「うちは利益が出ているのに、なぜ提示額が低いのか」と問われる場面の多くは、この構造を先に説明していないことが原因です。
なお、当社の成功報酬は移動総資産レーマン方式(基準額=株式価値+負債総額)を採っています。負債の多寡が報酬基準額にも影響するため、アドバイザー自身が負債の構造を正確に把握していることは、料金の説明責任の面でも必要です。料金体系は料金体系のページをご確認ください。
有利子負債に含めるもの|借入金以外の「デットライク項目」
ネットデットの実務は、「貸借対照表の借入金を足す作業」ではありません。買い手の会計士が見ているのは「将来、会社から現金が出ていくことが確定的または見込まれるのに、借入金として計上されていないもの」です。これをデットライク項目と呼びます。
| 区分 | 具体例 | 確認方法 |
|---|---|---|
| 明示的な借入 | 短期・長期借入金、社債、当座貸越の実行残高 | 借入金明細、銀行取引一覧、返済予定表 |
| 実質的な資金調達 | 割引手形、債権譲渡(ファクタリング)、ファイナンス・リース債務 | 手形帳、リース契約書、注記 |
| 未計上の債務 | 未払残業代、退職給付の引当不足、有給休暇の未消化に係る負担 | 勤怠記録、賃金台帳、退職金規程 |
| 滞納・遅延 | 税金・社会保険料の未納、仕入先への支払遅延 | 納付書、納税証明書、買掛金の年齢表 |
| 将来の支出義務 | 係争案件の見込支払、原状回復義務、環境対策費、修繕の先送り分 | 訴訟資料、賃貸借契約書、設備の点検記録 |
このうち、中小企業のM&Aで最も高い頻度で問題になるのが未払残業代と退職給付です。労務デューデリジェンスの論点は「労務DDで見られるポイント」に、簿外債務の全体像は「簿外債務とは」にまとめています。仲介者は、これらが後から出てくると価格が下がることを知っているのですから、受託段階で当たりをつけ、売り手に先に伝えておくのが仕事です。
現預金の扱い|全額を差し引けるとは限らない
ネットデットは有利子負債から現預金を引きますが、この「引ける現預金」の範囲が実務では争点になります。買い手の立場からすれば、譲渡日の翌日に会社の口座から自由に引き出せる資金だけが実質的な価値です。次の三つは、控除できる現金から外して考えるのが一般的です。
- 運転現金:給与・仕入・家賃の支払いを回すために常時必要な水準の現金。月次の資金繰り表から、最も残高が薄くなる月を見て推定する
- 拘束されている預金:借入の担保に供された定期預金、保証金の代わりに積んでいる預金、取引先の保証のために動かせない預金
- 他人の資金:預り金、顧客からの前受金のうち返還可能性のあるもの、従業員積立金など
季節性の強い業種では、決算日の現預金が一年で最も厚い(または最も薄い)時点であることが珍しくありません。決算日残高だけを見て「現金が潤沢な会社だ」と判断すると、実態を外します。月次で12か月以上並べるのが基本動作です。運転資本の季節変動の見方は「運転資本の見方」で詳しく扱っています。
中小企業特有の論点|役員借入金・保険積立金・簿外債務
役員借入金
オーナーが会社に貸し付けている資金は、会社にとっては返済義務のある債務です。したがって原則としてネットデットに含めます。処理の選択肢は、クロージングまでに債権放棄する、役員退職金や譲渡対価と相殺する、そのまま買い手が引き継ぐ、などがあり、それぞれ税務上の取り扱いが異なります。必ず税理士に確認し、価格の前提として買い手と書面で確認してください。詳細は「役員借入金がある会社のM&A」を参照してください。
保険積立金・共済
法人契約の生命保険や共済の解約返戻金相当額は、事業に不可欠でなければ非事業用資産として株式価値に加算する扱いを検討します。ただし借入の担保になっている場合や、退職金の原資として実質的にひも付いている場合は、単純な加算はできません。保険証券と解約返戻金の推移表を必ず取り寄せます。
経営者保証
ネットデットそのものではありませんが、譲渡時に必ず論点になるのが経営者保証の解除です。金融庁の公表によれば、経営者保証に依存しない新規融資の割合は2024年度上期で52%に達しており、解除の環境は以前より整っています。とはいえ既存の保証は自動的には外れません。金融機関との調整をいつ・誰が始めるかは、案件の初期に決めておく必要があります。「経営者保証の解除」を参照してください。
基準日の決め方と、計算根拠の残し方
ネットデットは日々動く数字です。したがってどの時点の数字を価格の前提にしたのかを明確にしないと、必ず後から揉めます。実務上のポイントは三つです。
- 基準日を書面で固定する:意向表明書や基本合意書に「◯年◯月◯日時点の試算表を前提とする」と明記する
- 基準日以降の増減の扱いを決める:クロージング時に実額で精算するのか、価格を固定するのか(いわゆるロックド・ボックス的な考え方)を先に合意する
- 計算シートを残す:項目・金額・出典資料名・確認日・担当者を一枚に残し、更新履歴を消さない
クロージング時の精算設計は、そのまま最終契約の価格調整条項につながります。「価格調整の実務」で扱う論点と一体で考えてください。なお基準日以降に多額の配当や役員賞与を出す、設備を購入するといった動きがあると価格が崩れます。基準日を決めたら売り手に「日常の範囲を超える資金の動きは事前に相談してほしい」と伝えるのも仲介者の仕事です。
売り手への説明|「借金を返せば手取りが増える」の正しい伝え方
ネットデットの説明でオーナーが最も誤解しやすいのが、「では譲渡前に借金を返しておけば手取りが増えるのか」という点です。答えは原則としてノーです。手元の現金で借入を返済すれば、有利子負債は減りますが控除できる現預金も同額減るため、ネットデットはほぼ変わりません。株式価値も基本的に動きません。この説明を最初にしておかないと、オーナーが善意で資金を動かし、かえって運転資金が痩せて買い手の評価を下げることがあります。
一方で、手取りが実際に変わる要因もあります。デットライク項目の解消(未払残業代の清算、滞納の解消)、非事業用資産の整理、遊休資産の売却、名義が個人と法人で混在している資産の整理などです。これらは「借金を返す」のではなく「実態を透明にする」作業で、買い手のリスク認識を下げるため、価格に反映されやすくなります。
説明の順番は、いつも同じで構いません。①事業価値は事業の実力で決まる、②そこから会社が背負っている負担を引いたものがオーナーの取り分になる、③だから負担を隠すのではなく、正しく見せて減らすことが手取りにつながる。この三段で話すと、多くのオーナーは納得されます。価格に関する会話全般の設計は「価格の説明の仕方」を参照してください。数字を出す前に構造を共有しておくことが、最後まで案件を守ります。