本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。類似会社比較法(マルチプル法)は、新人アドバイザーが最初に覚えて、最初に誤用する手法です。「同業の上場企業がEBITDAの何倍で評価されているから、この会社もその倍率で」——この一足飛びの当てはめが、オーナーの期待値を膨らませ、後で自分の首を絞めます。本稿では、類似会社の選び方、倍率の使い分け、調整の考え方、そして限界の見きわめ方を、実務の順序で整理します。手法の基礎は「マルチプル法とは」をご覧ください。
類似会社比較法の考え方|「市場が付けた値段」を借りてくる
この手法の本質は単純です。似た事業をしている会社に市場がいくらの値を付けているかを調べ、その比率を対象会社に当てはめる。DCFのように将来を予測する必要がなく、時価純資産法のように資産だけを見るのでもなく、「今の市場の目線」を借りてこられる点に価値があります。
手順は次の五段階です。
- ①対象会社の事業内容・収益構造・顧客構成を整理する
- ②比較対象となる上場企業(または公表されている取引事例)を選定する
- ③選定した会社の財務数値と時価総額から倍率を算出する
- ④外れ値を除き、中央値などの代表値を決める
- ⑤対象会社の財務数値に当てはめ、規模や流動性の差を調整する
実務の質を分けるのは、②と⑤です。①〜④は手を動かせばできますが、②の選定基準と⑤の調整根拠には判断が入り、そこに説明責任が生じます。
類似会社の選び方|「同業」だけでは足りない
業種分類が同じというだけで類似会社にするのは、実務では最も危うい近道です。同じ「食品製造」でも、原料を仕入れて量産する会社と、自社ブランドで直販する会社では、利益率も評価も別物です。選定では次の軸を確認します。
| 軸 | 見るポイント |
|---|---|
| 事業内容 | 何を、誰に、どう売っているか。製造か卸か小売か、受託かブランドか |
| 収益構造 | フロー型かストック型か、原価率、固定費比率、設備の重さ |
| 顧客構成 | 法人か個人か、特定顧客への依存度、契約の長さ |
| 成長性 | 売上・利益の伸び、市場そのものの拡大・縮小 |
| 規模 | 売上・利益の桁。桁が二つ以上違うと、そのままでは比較しにくい |
| 地域・規制 | 営業地域、許認可の有無、業界特有の規制環境 |
実務上のコツは、選んだ理由と、あえて外した理由を両方書き残すことです。「この会社は業種は近いが、海外売上比率が高いため除外」といった注記があるだけで、資料の信頼性は大きく変わります。逆に、都合のよい高倍率の会社だけを並べた資料は、買い手側の専門家に一目で見抜かれ、その後の主張すべてが割り引かれます。
選定数は、少なすぎると特定企業の事情に引きずられ、多すぎると業種の輪郭がぼやけます。実務では複数社を選び、外れ値を除いたうえで中央値を軸に見るのが一般的です。
どの倍率を使うか|分子と分母を必ず対応させる
倍率にはいくつか種類があり、それぞれ分子(何の価値か)と分母(何の指標か)の対応が決まっています。ここを取り違えると、計算そのものが誤りになります。
- EV/EBITDA:分子は事業価値。資本構成や償却方法の違いを除いて比較できるため、中小M&Aの実務で最もよく参照される。算出結果は事業価値なので、株式価値にするにはネットデットを引く
- EV/EBIT:設備の重さの違いを反映したいときに使う。償却負担が業種内で大きく異なる場合に有効
- PER(株価収益率):分子は株式価値、分母は当期純利益。税負担や特別損益の影響を受けやすく、中小企業では利益が小さいと倍率が跳ねる
- PBR(株価純資産倍率):資産の比重が大きい業種で補助的に使う。収益力が反映されない点に注意
- EV/売上高:赤字企業や成長段階の企業で、他の指標が使えないときの補助
実務では、EV/EBITDAを主軸にし、他をサブで併用する形が扱いやすいと考えています。ただし、分母のEBITDAは調整後の数字を使わなければ意味がありません。オーナー企業の決算書をそのまま分母に置くと、比較にならないからです。調整の考え方は「EBITDAの実務」で扱っています。
また、算出に使った基準日と出典を必ず記録してください。株価は動きます。「◯年◯月◯日終値ベース」と書いていない資料は、数か月後に自分自身が説明できなくなります。
規模・非流動性・支配権による調整
上場企業から得た倍率を、そのまま非上場の中小企業に当てはめることはできません。実務では、少なくとも次の三つの差を意識します。
①流動性の差
上場株はいつでも市場で売買できますが、非上場株の売却先を見つけるのは容易ではありません。この換金性の差は、一般に評価の引き下げ要因として扱われます(いわゆる非流動性ディスカウント)。
②規模とリスクの差
中小企業は、内部管理体制、資金調達手段、人材層、取引先の分散度合いのいずれにおいても上場企業と条件が異なります。特にオーナー個人への依存と特定取引先への集中は、中小M&Aで最も頻繁に評価に影響する要素です。
③支配権の差
上場株の市場価格は、少数株主が保有する株式の値段です。一方、M&Aで取引されるのは経営権を伴う株式です。経営権が移ることの価値をどう見るかは、案件の性質や買い手の目的によって変わります。
これらの調整は、数値の当てはめではなく判断です。だからこそ、調整率だけを書いた資料には意味がありません。「なぜこの方向に、この程度調整したのか」を言葉で残してください。判断の跡が残っている資料は、買い手側の専門家との議論に耐えます。
限界|中小企業に当てはめるときに壊れるところ
この手法の限界を、後輩には正直に伝えるようにしています。次の四点です。
- 本当に似た会社は、たいてい見つからない:中小企業の事業は個別性が高く、上場企業に同型がないことが多い
- 市場の状況に引きずられる:同じ会社でも、算定した時期によって結果が動く。倍率は「その時点の市場の気分」を含んでいる
- 分母が小さいと倍率が暴れる:利益が小さい会社にPERを当てると、わずかな利益の差で価値が跳ねる
- 個別の買い手の事情を反映できない:実際の価格は、シナジー・資金調達条件・競合の有無で決まる。市場の平均は出発点にすぎない
したがって実務では、類似会社比較法を単独で結論にしない。時価純資産法、年買法、必要に応じてDCFと並べ、レンジの重なりを見る。これが中小M&Aでの標準的な使い方です。手法ごとの位置づけは「簡易株価算定の実務」、DCFの扱いは「DCFを中小M&Aでどう使うか」を参照してください。
説明の仕方|数字ではなく前提を説明する
最後に、伝え方です。私が新人に禁じているのは、「同業は◯倍だから、御社もこのくらいです」という言い方です。この一言は、オーナーの頭の中に一つの数字を焼き付けます。その後どれだけ丁寧に説明しても、期待値はその数字から動きません。
代わりに、次の順序で話します。
- ①何と比べたのかを先に見せる:選定した会社と、選んだ理由・外した理由
- ②どの指標で比べたのかを示す:EV/EBITDAなのかPERなのか、分母は調整後なのか
- ③差を説明する:上場企業との条件の違いを具体的に挙げ、調整の方向と理由を述べる
- ④幅で示す:一点ではなくレンジ。レンジの上限に近づく条件、下限に近づく条件も並べて話す
- ⑤最終的な価格は買い手が決めると伝える:評価は相場観の共有であり、価格ではない
この順序で説明できるようになると、オーナーとの会話が「いくらですか」から「どうすれば上のレンジに近づきますか」に変わります。そこまで来れば、企業価値を高める打ち手の相談ができる。評価は交渉の道具ではなく、会話を前に進めるための共通言語です。相場の考え方全般は「会社売却の相場はどう決まるか」も参照してください。