本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。この仕事は、案件が増えるほど成果が出るわけではありません。増えた案件をすべて同じ強度で追いかけると、どれも中途半端になり、結果として一番大事な案件を落とします。優先順位づけは能力ではなく技術で、型があります。ここでは判断の三軸、週の時間配分、温度低下のサイン、そして後回しにした案件への向き合い方を書きます。進捗ステージの定義は「案件パイプライン管理の実務」、個別案件の工程管理は「案件のスケジュール管理」を併読してください。
優先順位を決めないと、全部が遅れる
優先順位をつけない人の一日は、届いたメールの順に進みます。声の大きい相手、催促してくる相手、対応の簡単な仕事が先に処理され、静かに待っている重要案件が後回しになります。この構造が続くと、次のことが起きます。
- 山場を迎えた案件の準備が薄くなり、交渉や契約の局面で判断を誤る
- 連絡が途絶えた売り手の温度が下がり、いつの間にか他社に相談が移る
- やることリストは埋まっているのに、成約に近づいた案件が一つもない
優先順位づけの目的は、仕事を減らすことではありません。落としてはいけないものを落とさないことです。まずこの目的を握ってから、軸の話に進みます。
三つの軸|確度・緊急度・当事者の負荷
案件を並べるときは、次の三軸で見ます。一軸だけで判断すると必ず偏ります。
| 軸 | 見るもの | 判断のヒント |
|---|---|---|
| 確度 | 依頼者の意思の固さ、株主の合意、資料の揃い方、買い手の反応 | 「売りたい」と言っているか、「売れたら考える」かは別物。株主全員の合意が取れているかは特に重い |
| 緊急度 | 期限のある事情、工程上の締切、相手方の待ち時間 | 買い手からの回答期限、DDの資料期限、決算期や税制の期限は動かせない |
| 当事者の負荷 | 今この瞬間、相手が動けない/動きすぎている状態か | 売り手が繁忙期、買い手が社内稟議中など。こちらが急いでも進まない時期を見極める |
三軸で並べると、優先度は自然に四つの群に分かれます。
- A(今週の主戦場):確度が高く、期限が近い。時間の6割を投じる
- B(準備を進める):確度は高いが期限が先。資料作成や候補の整理を前倒しで進める
- C(接点を保つ):確度は読めないが、関係が切れると終わる。定期連絡の枠で維持する
- D(待ちの局面):相手が動けない。こちらが追いかけても進まないので、次の接点日だけ決めて置く
大事なのは、Dを「放置」ではなく「日付つきの待ち」にすることです。日付のない待ちは、そのまま消滅します。
週の時間配分の型|固定枠と可変枠を分ける
優先順位が決まっても、時間割に落とさなければ実行されません。私が勧めているのは、週の時間を固定枠と可変枠に分ける方法です。
- 固定枠(動かさない):週初の案件棚卸し30分、案件会議、既存依頼者への定期連絡の枠、新規開拓の枠
- 可変枠:A案件の対応、突発の相談、資料作成
新人が真っ先に削るのが「新規開拓の枠」と「定期連絡の枠」です。この二つは緊急性がないため、忙しくなると消えます。しかし数か月後に案件が枯れる原因は、まさにここを削ったことにあります。緊急でないが重要な枠を固定にする——これが週の設計の肝です。
もう一つ、可変枠の中にまとまった作業時間を確保してください。IMや提案資料の作成、決算資料の読み込みといった仕事は、細切れの時間では品質が上がりません。30分刻みの隙間で作った資料は、読み手にもそう伝わります。週のうち半日でよいので、連絡対応をしない時間帯を先に押さえ、そこに思考の要る仕事を置く。この一枠があるかないかで、案件の進み方が変わります。
週初の棚卸しでは、全案件を一覧にして次を確認します。①先週から動いたか ②次のアクションと期日は決まっているか ③期日を過ぎた宿題はないか ④相手ボールのまま2週間以上経っていないか。この4問だけで、落ちかけている案件が浮かび上がります。行動量そのものの管理は「自分のKPIを設計する」を参照してください。
温度が下がるサインを見逃さない
後回しにしてよい案件と、してはいけない案件を分けるのが、温度のサインです。次の兆候が出たら、優先度を一段上げてください。
- 返信が遅くなった:これまで即日だった相手が数日空くようになった
- 決定権者が出てこなくなった:窓口が担当者に下りた、同席していた配偶者や後継候補が来なくなった
- 質問の質が変わった:条件の詳細を聞いていた人が、一般論を聞くようになった
- 「少し考えたい」が二度続いた:一度目は検討、二度目は撤退のサインであることが多い
- 資料の提出が止まった:出せない理由(社内の事情、家族の反対)が背後にある可能性
サインを見つけたときの動きは、追いかけることではありません。状況を聞きに行くことです。「進め方について、いま気になっている点はありますか」と率直に尋ねると、価格への不満、従業員への心配、家族の反対といった本当の理由が出てきます。理由が分かれば、優先度を上げるのか、待ちに切り替えるのかを正しく判断できます。心の動き方の背景は「売り手オーナーの心理を理解する」も参考になります。
後回しにした案件に対する誠実さ
優先順位をつけるということは、誰かを後回しにするということです。ここで実務者としての姿勢が問われます。守ってほしいのは三点です。
- 次の接点日を必ず伝える:「来月上旬にご報告します」と言い、その日に必ず連絡する。頻度が低くても、約束が守られていれば信頼は減らない
- 沈黙で放置しない:進捗がないときも「動きがない」と伝える。無音は、依頼者にとって最も不安な状態
- 抱え込まない:自分の時間で回せないと分かった時点で、上司に相談して分担を変える。抱えたまま落とすのが最悪の結果
最後の一点を軽く見ないでください。案件を落とす人の多くは、能力が足りなかったのではなく、手が回らないと言えなかっただけです。仲介の仕事は個人技に見えて、実際は組織で守るものです。手が足りないと早めに言えることは、弱さではなく実務者としての練度です。接触の履歴を組織で共有しておく仕組みは「顧客管理と接触履歴の残し方」にまとめています。