本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。IMや提案資料にどんな指標を載せるか——ここで悩む若手は多いと思います。ネットで「業種別KPI」を調べれば一覧は出てきますが、そこから選んで並べても資料は良くなりません。KPIは売り手が見せたい数字ではなく、買い手が判断に使う数字だからです。本稿では、買い手の問いから逆算する考え方、事業の型ごとの指標例、載せるときの条件、そしてデータが取れないときの対応までを整理します。
KPIは「見せたい数字」ではなく「買い手が知りたい数字」
資料に指標を並べる目的は、会社の良さをアピールすることではありません。買い手が投資判断に使う材料を提供することです。この違いは、実際の資料に露骨に表れます。
- アピール目的の資料:良い数字だけが並ぶ。推移がなく、良かった年だけが載る。出典がない
- 判断材料としての資料:良い数字も悪い数字も、3期以上の推移で載る。定義と出典が書いてある
買い手の担当者は日常的に多くの資料を見ています。前者は一目で分かり、その瞬間に資料全体の信頼が下がります。指標を絞り、推移を見せ、定義を書く。この三点を守るだけで、資料の格は上がります。
そしてもう一つ。指標は数を増やすほど弱くなります。十個並べれば、一つひとつの検証が甘くなり、焦点もぼやけます。事業の中核を表す指標を数個に絞ってください。
買い手の四つの問いから逆算する
どの指標を選ぶか迷ったら、買い手の問いに戻ります。買い手が知りたいのは、突き詰めれば次の四つです。
| 買い手の問い | 答えになる指標の性質 |
|---|---|
| 収益は続くか | 継続性を示す指標(契約更新率、リピート率、取引継続年数、受注残) |
| 収益の源泉はどこか | 構成を示す指標(顧客別・商品別・拠点別の売上構成、粗利構成) |
| 効率はどうか | 生産性を示す指標(一人当たり売上・粗利、設備の稼働率、回転期間) |
| 伸びしろはあるか | 余力を示す指標(稼働余力、商圏の状況、既存顧客への未提供領域) |
この四つに対して、その会社で最も説得力のある指標を一つか二つずつ選ぶ。それだけで、資料は十分に機能します。「この業種ならこの指標」ではなく「この会社の強さを示すならこの指標」という選び方をしてください。
事業の型ごとの指標例|収益の型で分類する
とはいえ、出発点となる型はあります。業種名ではなく収益の型で分類すると、応用が利きます。
| 型 | 該当しやすい業種 | 見せると効く指標 |
|---|---|---|
| ①ストック型 | 保守・点検、賃貸管理、定期配送、システム運用 | 契約件数の推移、契約更新率、解約率、月額単価、契約残存期間の分布 |
| ②受注型 | 建設、工事、受託製造、システム開発 | 受注残高、見積提出件数と受注率、案件あたり平均単価、工期の推移、手持ち工事の粗利率 |
| ③反復購買型 | 卸、部材供給、消耗品販売 | 取引先別の継続年数、発注頻度、取引先の入れ替わり状況、上位先の構成比推移 |
| ④拠点型 | 店舗、施設、クリニック、教室 | 拠点別の売上と収支、客数と客単価、稼働率・回転率、商圏内の状況 |
| ⑤人時提供型 | 人材サービス、警備、清掃、設計事務所 | 稼働人数、稼働率、時間単価、離職率、採用数と定着率、一人当たり粗利 |
いずれの型でも共通して効くのが、顧客構成の推移と一人当たり粗利です。前者は収益の安定性を、後者は事業の効率と人への依存度を示します。担当業種の理解を深める方法は「業界知識の身につけ方」も参照してください。
なお、これらの指標について業界平均や目安の水準を資料に書くことは避けてください。出典のない業界水準は、根拠を問われた瞬間に資料全体の信頼を崩します。書くなら、公表されている統計に出典を付けて引用する。それができないなら、自社の推移だけを示すほうが安全です。
KPIを載せるときの三つの条件
選んだ指標を資料に載せる前に、次の三つを満たしているか確認してください。
①定義が書いてあるか
「稼働率」と書いても、分母が何かで意味は全く変わります。総労働時間なのか、所定労働時間なのか、稼働可能人数なのか。定義を一行書くだけで、質問の往復が一回減ります。デューデリジェンスで定義の違いが判明すると、それまでの議論がやり直しになることもあります。
②裏付けとなる資料があるか
指標は、必ず元データから再現できる必要があります。受注台帳、請求データ、勤怠記録、在庫システムの出力——どこから取った数字かを記録してください。再現できない指標は載せない。これが原則です。
③推移で見せているか
単年の数字は情報量が乏しく、良い年だけを切り取ったとも受け取られます。最低3期、可能なら月次で並べる。推移の中に変化があれば、その理由を一行添える。指標の価値は、水準ではなく変化とその説明にあります。
見せないほうがよい指標と、データが取れないときの対応
載せないほうがよいもの
- 出典のない業界比較:「業界平均を上回る」「地域トップクラス」といった根拠のない位置づけ
- 定義が曖昧なまま良く見える指標:計算方法を説明できないなら載せない
- 推計で作った指標:実データがないものを概算で作ると、デューデリジェンスで崩れる
- 個人が特定される指標:従業員個人の成績、特定顧客の詳細など、守秘や個人情報の観点で問題があるもの
- 一時的な好調だけを示す指標:特需の年だけを切り取った数字
データが取れないとき
中小企業では、そもそも指標を集計していないことが普通です。慌てて作らないでください。順序は次のとおりです。
- ①既存資料から算出できないか確認する:請求書、受注台帳、勤怠記録、在庫データ。集計されていないだけで元データはあることが多い
- ②取得の負担を見積もる:売り手の手を過度に煩わせるなら、簡易版で代替する
- ③取れない場合は、取れる指標で説明する:無理に作らず、別の角度から同じことを示す
- ④管理体制の現状として正直に書く:「◯◯については現在集計しておらず、譲渡後の管理体制の課題となる」と書いてよい
④を恐れる必要はありません。管理指標が整っていないことは中小企業では一般的で、買い手にとってはむしろ改善余地として読まれることもあります。隠して後から判明するより、はるかに良い。
指標を通じて事業を理解する|仲介者にとっての副産物
最後に、実務者としての効用を書いておきます。KPIを選ぶ作業は、その会社を理解する作業そのものです。
「この会社は、何が増えると儲かるのか」。この問いに答えられなければ、指標は選べません。件数なのか、単価なのか、稼働率なのか、リピートなのか。答えを探す過程で、社長に聞くべきことが見つかります。「受注が増えたとき、一番先に足りなくなるのは何ですか」「単価を上げられない理由は何ですか」——こうした質問は、指標を考えていなければ出てきません。
そして、選んだ指標はそのまま買い手との会話の軸になります。買い手が「うちの販路を使えば件数は伸ばせる」と言うとき、既に指標の言葉で話しています。売り手の会社を指標で語れるアドバイザーは、買い手と同じ土俵で議論ができる。これは資料作成の技術ではなく、事業を語る力です。
指標が定まれば、事業計画の分解もぶれません(「事業計画の作り方」)。IMの事業パートでも、強みを事実で示す材料になります(「IMの事業パートの書き方」)。KPIの設計は、資料作成の一工程ではなく、案件全体の背骨だと考えてください。