社会保険労務士の事務所は、資格者個人の名前で行う業務が中心です。そのため、会社を売るのと同じ形では引き継げません。本稿では、個人事務所と社労士法人の違い、顧問先の引き継ぎ方、給与計算という受託業務の扱いを整理します。
承継の相談が出てくる背景
相談のきっかけは、次のような形です。
- 所長の引退時期 — 顧問先に迷惑をかけない形で手続きを引き継ぎたい
- 手続きの電子化への対応 — 電子申請の比率が上がり、単独での体制整備が重い
- 給与計算の受託が増え、人手が足りない — 月次の締めに追われ、相談業務に手が回らない
- 後継者がいない — 帝国データバンクの2025年調査では、日本企業の後継者不在率は50.1%です
レコフデータによれば2025年のM&A件数は5,000件超で2年連続の過去最多です。第三者への承継は、以前より一般的な選択肢になっています。
個人事務所か、社労士法人かで形が変わる
承継の方法は、事務所の形態で分かれます。
- 個人事務所 — 事業そのものを売買する形にはなりません。実務では、顧問先の引き継ぎ(紹介)と、職員の移籍、什器や事務所の賃借権の移転を組み合わせます
- 社労士法人 — 社員(出資者)は社会保険労務士でなければならないため、資格を持たない買い手が持分を取得することはできません。同業の法人や資格者が相手になります
つまり、この業種は相手が資格者に限られる点が最大の制約です。一般の事業会社が買い手になる形は想定しにくく、同業との統合が中心になります。実行の前に、所属する会に手続きを確認することをお勧めします。
※ 税務・法務の取り扱いは個別の事情で結論が変わります。実行の前に、顧問税理士・弁護士にご確認ください。
顧問先の引き継ぎは「同意」が前提
顧問契約は、事務所と顧問先の間の契約です。承継にあたっては、顧問先の同意が必要になります。
実務では、所長が顧問先を一軒ずつ回り、後継の資格者を紹介する形をとります。この引き継ぎの期間をどれだけ取れるかが、承継の成否を分けます。短い期間で切り替えると、顧問先は別の事務所を探し始めます。
そのため、価格の設計でも「引き継いだ顧問先が一定期間残ったら支払う」という形をとることがあります。残る見込みを双方で確かめながら進める方法です。
給与計算の受託は、別の論点を持つ
給与計算を受託している場合、手続き業務とは別の確認が入ります。
- 使っているソフト — 事務所のものか、顧問先のものか。切り替えが必要かどうか
- 締めのスケジュール — 月内のどこに負荷が集中しているか
- データの預かり方 — 従業員の個人データをどう受け渡し、どこに保管しているか
- 誤りがあった場合の責任の範囲 — 契約でどう定めているか
給与計算は毎月期限のある業務なので、引き継ぎの時期を年度や月次の区切りに合わせる配慮が必要になります。
職員の移籍
事務所の実務は、資格を持たない職員が支えている部分が大きいです。
個人事務所の承継では、職員は新しい事務所に移籍する形になります。転籍にあたっては、本人の同意が必要です。勤務の条件、通勤、業務の分担が変わるかどうかを、早い段階で示せるようにしておきます。
職員が顧問先の担当を持っている場合、その人が残ることが顧問先の継続につながります。所長の引き継ぎと同じくらい、職員の定着が承継の成否に効きます。
条件の議論で見られるもの
資格者の事業なので、設備より顧問先の構成が見られます。
- 顧問先の数と月額 — 顧問料の水準と、何年続いている関係か
- 業務の内訳 — 手続き、給与計算、相談のそれぞれの比率
- 顧問先の規模と業種 — 従業員数の分布。労務の難易度に差が出ます
- 所長以外が担当している比率
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承継の前に整えられること
準備として効果が大きいのは次の三つです。
第一に、顧問先の一覧です。契約の開始年、月額、業務の範囲、従業員数、担当者。引き継ぎの計画はこの表から作ります。
第二に、手続きの標準化です。顧問先ごとに進め方が違うと、引き継ぐ側の負担が大きくなります。よく使う手続きの手順だけでも、文書にしておく価値があります。
第三に、電子申請の整備です。電子証明書や申請の環境が所長個人に紐づいている場合、承継の手続きで確認が必要になります。何が誰の名義かを把握しておきます。
進め方の順番
検討の初期は、社名を出さずに進めることができます。
- 秘密保持契約を結び、同業の資格者・社労士法人に打診する
- 面談で、引き継ぎの期間と顧問先への紹介の進め方を話す
- 条件を書面にする(顧問先の継続を条件に含めることがあります)
- 顧問先への紹介、職員の移籍、最終の清算
この業種では、引き継ぎの期間をどれだけ取れるかが最も重要です。引退の時期が決まっているなら、2年ほど前から相談を始めるのが現実的です。