創業からの苦しい時期を一緒に乗り越えてきた、いわゆる番頭格の社員。取引先からの信頼も厚く、現場も数字も分かっている。「この人なら」と考える経営者は多く、実際に従業員承継は親族内承継・第三者承継と並ぶ第三の道として定着しています。
ただし、番頭格の社員への承継には親族内承継とは異なる四つの壁があります。適性の見極め、株式の取得資金、個人保証、そして社内の納得です。いずれも越えられない壁ではありませんが、順番を誤ると途中で止まります。本稿では、それぞれの壁の性質と、実務で採られている手当てを整理します。
「支える人」と「決める人」は別の能力
最初にお伝えしたい、そして最も見落とされやすい点です。番頭として優秀であることと、経営者として機能することは、必ずしも同じではありません。
番頭役の方は、経営者の意思決定を前提に、それを的確に実行し、現場を回し、時に諫める役割を担ってきました。この役割の卓越性は、「決められた方向の中で最善を尽くす力」です。一方、経営者に求められるのは、方向そのものを決める力、そして決めた結果の責任を一人で負う覚悟です。
見極めのために確認したいこと
- これまでに、本人の判断で投資や採用を決めた経験があるか
- 経営者と意見が異なったときに、自分の案を主張したことがあるか
- 数字の責任を負う立場で、悪い数字を早い段階で報告してきたか
- 金融機関や主要取引先と、経営者の同席なしに話ができるか
これらが十分でないからといって、適性がないという結論にはなりません。経験していないだけであれば、任せることで伸びる領域です。重要なのは、指名の前にその経験を積む期間を設けることです。逆に、本人が「決める立場」を明確に望んでいない場合は、無理に据えると双方にとって不幸な結果になります。
年齢という、避けて通れない論点
番頭格の社員は、多くの場合、経営者と年齢が近いか、一回り下程度です。ここに現実的な制約が生まれます。
仮に経営者が70歳、番頭が60歳であれば、その方が経営を担える期間は10年に満たないかもしれません。つまり、承継したその日から次の承継を考えなければならない状況になります。これは必ずしも悪いことではなく、次のように位置づけられる場合もあります。
- 橋渡しとしての承継——若手が育つまでの5〜10年を番頭格の方が担い、その間に次の世代を育てる。役割を最初から明示しておけば、本人も引き受けやすくなります。
- 経営と所有を分ける——経営は番頭格の方が担い、株式は段階的に若手世代へ移していく。
- 第三者承継の受け皿として——譲渡後も番頭格の方が社長として残り、買い手のもとで経営を続ける形。この場合、株式取得資金と個人保証の問題は生じません。
年齢が近いこと自体を理由に諦める必要はありませんが、「その次」まで含めた設計を最初に描いておかないと、数年後に同じ悩みが再来します。
最大の壁——株式の取得資金
従業員承継が途中で止まる原因として、最も多いのが資金です。長年勤めてきた社員に、自社株を買い取るだけの個人資産があることは稀です。
実務で使われる手当て
- 持株会社を設立し、金融機関からの借入で株式を取得する——後継者が設立した会社が株式を買い取り、その会社の利益や対象会社からの配当で返済していく方法です。
- 段階的に取得する——役員報酬から少しずつ買い増していく形。時間はかかりますが、負担が分散します。
- 役員退職慰労金と組み合わせる——経営者が受け取る退職金と株式譲渡代金のバランスを設計し、株式の譲渡価格そのものを抑える方向で調整する。
- 自己株式の取得(金庫株)を併用する——会社が自社株の一部を買い取り、後継者が取得すべき株数を減らす方法です。
- 公的な支援制度の活用——事業承継・M&A補助金など、要件に合えば費用面の負担を軽減できる制度があります。
いずれの方法も、自社株の評価額がいくらになるかを先に把握していないと設計できません。まずは顧問税理士に評価の目安を確認するところから始めてください。資金の組み方は「従業員承継(MBO・EBO)とは」、金庫株の使い方は「自己株式の取得(金庫株)を使った事業承継」で詳しく扱っています。
個人保証を、家族が引き受けられるか
資金と並ぶもうひとつの壁が、個人保証です。借入のある会社では、経営者が交代すれば保証も引き継ぐことが一般的でした。番頭格の社員にとって、これは会社の借入を自らの家庭の問題として引き受けることを意味します。
ここで必ず確認していただきたいのは、ご本人だけでなくそのご家族の理解です。「社長が言うのだから」と本人が受けても、家庭で反対されて後日撤回に至る例は珍しくありません。条件を示した時点で、家族と相談する時間を渡してください。
保証を軽くする方向での交渉
経営者保証に関しては、金融機関に依存しない融資の取り組みが進んでいます。金融庁の公表によれば、経営者保証に依存しない新規融資の割合は2024年度上期で52%とされています。つまり、保証を求めない融資は例外ではなくなりつつあります。
承継の局面では、次の方向で交渉の余地があります。
- 法人と経営者個人の資産・経理が明確に分離されていること
- 財務基盤が一定水準にあり、返済能力が確認できること
- 金融機関に対する情報開示が適時・適切に行われていること
これらの要件を整えたうえで、承継の相当前から金融機関と対話を始めることが重要です。詳しくは「個人保証を後継者に引き継ぐか」をご覧ください。
社内と親族株主の納得をどうつくるか
番頭格の社員への承継は、社内では比較的受け入れられやすい一方、二つの方向で摩擦が起きることがあります。
同世代の幹部との関係
同じ時期に入社し、同じように会社を支えてきた他の幹部がいる場合、一人だけが社長になることへの複雑な感情が生まれます。指名の理由と、選ばれなかった方の役割を、同時に示すことが有効です。担当領域の明確化、役員としての処遇、あるいは退職の条件まで含めて、発表の前に個別に話をしておいてください。
親族株主の反応
経営者のご家族が株式を保有している場合、「会社が身内のものでなくなる」という受け止め方が生じることがあります。ここは、株式の扱いを明確にすることで多くが解消します。承継に伴って親族の保有株式を買い取るのか、保有したまま配当を受ける形にするのか。曖昧なまま経営だけが移ると、後年に必ず問題化します。
また、経営者ご自身が株式の一部を保有し続ける設計も可能ですが、その場合は「いつまでに、どういう条件で残りを移すか」を文書にしておいてください。口頭の約束は、相続が発生した時点で効力を失います。
従業員承継が難しい場合の選択肢
検討を進めた結果、資金または保証の壁を越えられないという結論に至ることもあります。その場合に並ぶ道を挙げておきます。
- 第三者への譲渡(M&A)と組み合わせる——資本力のある会社に株式を譲り、番頭格の方は社長として経営を続ける形です。この場合、株式の取得資金も個人保証も本人が負う必要がなくなります。従業員の雇用と取引関係も引き継がれやすく、実務では有力な選択肢です。
- 時期をずらし、若手世代へ直接承継する——番頭格の方には引き続き支える役割を担ってもらい、その下の世代を育てる。ただし、経営者ご自身の体力と時間の余裕が前提になります。
- 持株会社方式で段階的に進める——一度に全株を移さず、経営の移譲を先行させ、所有の移転を数年かけて進める。
帝国データバンクの2025年の調査では後継者不在率は50.1%とされ、レコフデータの集計では2025年の国内M&A件数は5,000件を超えて2年連続で過去最多となりました。第三者承継は、従業員承継を諦めることではなく、番頭格の方に経営を続けてもらうための手段としても使えます。
まとめ|人選より先に、資金と保証を確かめる
従業員承継の検討は、「誰に任せるか」から始まりがちですが、実務では資金と保証の見通しを先に立てるほうが手戻りが少ないという実感があります。自社株の評価額、借入残高、保証の状況を確認したうえで、本人とご家族に条件を示す。この順序であれば、期待を持たせてから断念するという最もつらい展開を避けられます。