「なぜ、いま譲渡するのですか」。買い手との最初の面談で、ほぼ確実に聞かれる質問です。ここでの答え方が、その後の交渉の温度を決めます。そして同じ問いを、従業員も、取引先も、ご家族も持ちます。相手ごとに、どこまで、どう話すかを整理しておく価値があります。
買い手が理由を聞く本当の意図
買い手は、詮索のために理由を聞いているわけではありません。「自分が知らない悪い事情が隠れていないか」を確かめたいのです。
大口の取引先を失うことが決まっている。主要な技術者が辞める予定がある。大きな訴訟を抱えている。こうした事情を伏せたまま譲渡しようとしていないか。買い手はそれを心配しています。
したがって、答えとして最も強いのは事実に即した、具体的で、検証可能な理由です。「年齢と体力を考えて」「後継者がいない」「この先の投資に踏み切る自信がない」。どれも正直な理由であり、買い手にとっては安心できる答えです。逆に、抽象的で美しいだけの理由は、かえって疑いを招きます。
言いにくい理由をどう扱うか
業績が下がっている、資金繰りが厳しい、人が定着しない。こうした理由を正直に言えば不利になるのではないか、と迷われる方は多くいらっしゃいます。
結論から申し上げると、隠しても、デューデリジェンスで出てきます。そして、後から出てきた事実は、最初から開示されていた同じ事実よりもはるかに大きな打撃になります。価格の引き下げどころか、破談の理由になります。
実務では、言いにくい事実を「事実」と「対策」と「見通し」の三つに分けて整理します。何が起きているのか、それに対して何をしてきたのか、今後どうなると見ているのか。この形で示せると、弱みは「把握できている経営者」という評価に変わります。
従業員に話すときは、順番を変える
買い手に話す理由と、従業員に話す理由は、内容は同じでも並べる順番が違います。
買い手には、まず事実を。従業員には、まず「あなたたちに何が起きるか」を話します。給与は変わらない、勤務地は変わらない、雇用は続く。変わらないものを先に並べてから、なぜこの決断をしたのかを話す。この順番でないと、理由の説明は耳に入りません。
そして、経営者本人の言葉で話すこと。アドバイザーが条件を説明する場面はあっても、「なぜ決めたのか」だけは代わりに話せません。詳しくは従業員にいつ伝えるかで扱っています。
取引先には「何が変わらないか」を
取引先が知りたいのは、経営者の心情ではありません。取引が続くのかどうかです。
担当者は変わるのか、支払条件は変わるのか、納期や品質はどうなるのか。この三点に答えられる状態をつくってから挨拶に回ります。買い手の担当者に同行してもらえると、話が早く進みます。
順番も大切です。売上構成の大きい先、長い付き合いのある先から、経営者自身が足を運ぶ。後から人づてに知った取引先は、それだけで距離を置きます。契約にチェンジオブコントロール条項がある場合は、事前の確認が必要になります。
家族には、いちばん早く話す
実務でしばしば起きるのが、ご家族への説明が最後になってしまうことです。とくに、会社に関与していない配偶者やお子様が、成約が見えた段階で初めて知るという展開です。
株式が相続財産であること、譲渡代金がご家族の生活に直結すること、会社を継ぐ可能性があると思っていたお子様がいるかもしれないこと。いずれも、後から説明して納得していただくのは簡単ではありません。
親族内に株主がいる場合はなおさらです。譲渡には全株主の協力が要ります。検討を始めた段階で、まず家庭の中で話す。それが結果的にいちばん早い道になります。
理由は、一枚の紙にまとめておく
相手ごとに伝え方は変わりますが、土台となる事実は一つでなければなりません。相手によって理由が変わると、必ずどこかで食い違いが表に出ます。
実務としてお勧めしているのは、検討の早い段階で、譲渡を考えるに至った経緯を一枚の紙にまとめておくことです。いつ、何を考えて、どういう順で判断が変わってきたのか。時系列で書き出しておくと、面談でも説明でも、言葉がぶれません。
この紙は誰にも見せなくて構いません。自分の中で理由が整理されているかどうかが、相手に伝わってしまうからです。