「自分が診られなくなったら、この医院はどうなるのか」——長年地域の患者様を診てこられた歯科医院の院長先生から、近年こうしたご相談をいただく機会が増えています。お子様が歯科医師とは限らず、親族への承継が当然でなくなったいま、勤務医への承継や第三者への譲渡(M&A)は、閉院に代わる現実的な選択肢になりつつあります。本稿では、個人開設の医院と医療法人とで異なる承継の法的な枠組みから、承継で評価される価値、相手の選択肢、引き継ぎの実務までを、順を追ってご説明します。
歯科医院の承継が課題になる背景
歯科医院の多くは、院長先生お一人の診療技術と人柄の上に成り立っています。院長先生がご高齢になり、体力的に診療を続けることが難しくなったとき、後を継ぐ方がいなければ、医院は閉院するほかありません。
かつては、お子様が歯科医師となって医院を継ぐ形が一般的でした。しかし現在では、お子様が別の道に進まれていたり、歯科医師であっても勤務先や開業地について独自の考えをお持ちだったりと、親族内承継が成立しないケースは珍しくありません。これは歯科に限った話ではなく、帝国データバンクの2025年調査では、日本企業全体の後継者不在率は50.1%にのぼっています。
一方で、閉院には閉院のコストと痛みが伴います。通院中の患者様の転院先の案内、スタッフの雇用の終了、内装の原状回復や医療機器の処分など、「たたむ」ことにも相応の負担がかかります。何より、長年かけて築いた患者様との信頼関係が、そこで途切れてしまいます。だからこそ、医院を「たたむ」のではなく「引き継ぐ」道を、早い段階から検討しておく価値があるのです。
個人医院と医療法人で異なる承継の形
歯科医院の承継を考える際、最初に確認すべきは「医院の開設形態」です。個人開設か、医療法人か——この違いによって、承継の法的な枠組みが大きく変わります。
個人開設の歯科医院の場合
個人開設の医院には、株式や出資持分といった「譲渡の対象になる器」が存在しません。そのため、内装・ユニット等の設備・什器といった資産や、テナントの賃貸借契約などを個別に引き継ぐ、事業譲渡に類似した形での承継が一般的です。あわせて、現院長側の診療所の廃止手続と、引き継ぐ側の開設手続といった行政手続が必要になります。
医療法人の歯科医院の場合
医療法人化している場合は、法人の類型がポイントになります。2007年施行の医療法改正以降、持分あり医療法人は新たに設立できなくなりましたが、それ以前に設立された持分あり医療法人は経過措置型として存続しています。持分あり医療法人の承継は、出資持分の譲渡と、社員・理事の交代によって経営権を引き継ぐ形が一般的です。法人格が維持されるため、法人が締結している契約関係を引き継ぎやすい点が特徴です。
また、医療法人の理事長は原則として医師または歯科医師でなければなりません。引き継ぐ側にとっては、理事長に就任できる歯科医師をどう確保するかが重要な論点になります。この枠組みは医科のクリニックと共通ですので、詳しくは「クリニック・医療法人のM&A|持分の有無で変わる承継の進め方」もあわせてご参照ください。
歯科医院の承継で「価値」として評価されるもの
「うちのような小さな医院に、引き継ぐほどの価値があるのか」と謙遜される院長先生は少なくありません。しかし、承継を検討する側から見ると、歯科医院には開業をゼロから行う場合には得がたい価値が備わっています。
- 立地と診療圏——駅前・住宅地など、患者様が通いやすい場所を新たに確保するのは容易ではありません
- 患者基盤——定期的に通院される患者様やご家族単位のつながりは、長年の診療の積み重ねそのものです
- スタッフ——採用が難しい歯科衛生士・歯科助手・受付の方々が引き続き勤務してくださることは、大きな価値です
- 設備——ユニット・レントゲン等の設備が整った状態で診療を始められることは、初期投資の面で魅力になります
つまり、承継の価値は「建物や機器の値段」だけでは測れません。診療圏での信頼、通ってくださる患者様、働き続けてくれるスタッフ——数字に表れにくい部分こそが、引き継ぐ側にとっての本質的な価値です。企業価値の考え方の基本については「企業価値算定シミュレーター」のページもご覧ください。
承継の相手の選択肢|勤務医への承継と第三者承継
親族に後継者がいない場合、承継の相手は大きく二つに分かれます。
勤務医への承継
医院に勤務する歯科医師に引き継ぐ形です。患者様やスタッフにとって顔なじみの先生が院長になるため、引き継ぎが円滑に進みやすいのが利点です。一方で、勤務医の先生に承継の意思と開業資金の準備があるとは限らず、譲渡の条件を身内感覚のまま曖昧にしてしまうと、後々の行き違いの原因にもなります。第三者間と同様に、条件を書面で明確にして進めることが大切です。
第三者への承継(M&A)
開業を志す歯科医師や、分院展開を図る医療法人などに譲渡する形です。相手探しの範囲が広がるぶん、条件の合う相手に出会える可能性が高まります。ただし、相手探しを院長先生ご自身の人脈だけで行うのは限界があり、また交渉中の情報管理を誤ると、患者様やスタッフに不安が広がりかねません。秘密保持を徹底しながら相手を探す仕組みとして、M&A仲介会社を活用する意義があります。
親族承継・社内承継・第三者承継の比較については、「事業承継・後継者不在の方へ」のページで詳しく整理しています。
引き継ぎの実務|カルテ・スタッフ・行政手続
承継の相手が決まった後は、診療を途切れさせないための実務が重要になります。主な論点は次のとおりです。
患者様とカルテの引き継ぎ
通院中の患者様に対しては、院長交代のご案内の時期と方法を、引き継ぐ先生と相談して丁寧に設計します。カルテ等の診療記録の取り扱いは、個人情報の保護や保存義務に関わるため、承継の形態に応じた適切な手続きが必要です。この点は専門家の関与のもとで進めることをおすすめします。
スタッフの雇用
歯科衛生士をはじめとするスタッフの継続勤務は、承継の成否を左右します。事業譲渡に類似した形で個人医院を引き継ぐ場合、雇用契約の引き継ぎにはスタッフ個々の同意が必要になるのが原則です。処遇の方針を早めに固め、誠実に説明することが、安心して働き続けていただく前提になります。
行政手続と保険診療
診療所の開設・廃止に関する手続きや、保険診療に関する手続きなど、承継の形態に応じた行政手続が発生します。手続きの内容やスケジュールは地域や個別の事情によって異なるため、行政庁や行政書士等の専門家に早めに確認しながら、診療の空白期間が生じないよう段取りを組むことが肝要です。
まとめ|閉院を決める前に、早めの準備を
歯科医院の承継は、①開設形態(個人か医療法人か)の確認、②医院の価値の整理、③相手探し(勤務医か第三者か)、④引き継ぎの実務——という流れで進みます。いずれの段階にも一定の時間がかかるため、「診療を続けられるうちに」検討を始めることが、選択肢を最も広く保つ道です。体調の変化などで時間の余裕がなくなってからでは、条件面で譲歩を迫られたり、閉院しか選べなくなったりするおそれがあります。
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