本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。「赤字の会社は売れない」——これは正確ではありません。実務では、赤字でも承継が決まる案件は確実にあります。ただし、黒字案件と同じ進め方では決まりません。赤字の原因を分解し、買い手の関心に接続した訴求を作り、条件で不確実性を吸収する——この三段が必要です。本稿では、赤字案件を担当する際の考え方と段取りを整理します。制度的・一般的な論点は「赤字会社でもM&Aはできるのか」も併せてご覧ください。
赤字にも種類がある|まず原因を分解する
「赤字です」という一言で案件を諦める担当者は、仕事をしていません。まず分解してください。
| 赤字の型 | 内容 | 買い手からの見え方 |
|---|---|---|
| 一時的な赤字 | 大口の設備投資、特別損失、単年の受注減 | 原因が特定でき、再発しないと説明できれば評価は下がりにくい |
| オーナー起因の赤字 | 過大な役員報酬、個人的な支出、遊休資産の維持費 | 承継後に解消される部分。実質的な収益力で見てもらえる |
| 構造的な赤字 | 単価の下落、需要の縮小、固定費が重い | 買い手側の施策で改善できるかが焦点。難易度は高い |
| 資金繰りを伴う赤字 | 債務の返済が困難、支払いに遅延がある | 再生局面として扱う必要がある |
最後の型に該当する場合は、通常のM&Aではなく再生の枠組みで進める必要があります。「再生局面の案件」を参照し、早い段階で専門家につないでください。
それ以外の三つの型では、数字を実態に近づける作業が出発点になります。役員報酬の水準、オーナー個人に関わる費用、事業に使っていない資産の維持費——これらを整理し、事業そのものの収益力がどうなっているかを見ます。考え方は「実質的な利益(正常収益力)の考え方」に整理しています。
ただし、調整後の数字を仲介者が「これが実力です」と断定するのは避けてください。調整の考え方と根拠を示し、評価は買い手と専門家が行います。
買い手はどこを見るか|赤字の理由と再現性
赤字案件を検討する買い手が見ているのは、「赤字かどうか」ではなく「なぜ赤字なのか」と「自分たちが引き受けたらどうなるか」です。具体的には次の点です。
- 赤字の原因が特定できているか:説明できない赤字は、最も敬遠されます
- 原因が承継後も続くのか:オーナー起因であれば解消される。構造的であれば続く
- 売上そのものは維持されているか:顧客が離れているのか、単価が落ちているのか、原価が上がっているのか
- キャッシュはどうなっているか:損益が赤字でも資金は回っているのか、資金繰りが逼迫しているのか
- 従業員と技術は残っているか:人材が流出していれば、事業の再建は難しくなる
- 負債の水準:承継後の返済負担が事業の重荷にならないか
仲介者の仕事は、これらの問いに資料で答えられる状態を作ることです。売上の推移、取引先別の状況、原価の内訳、人員の推移、資金繰りの実績——赤字案件ほど、資料の精度が問われます。「なんとなく厳しいらしい」という状態では、買い手は判断できず、検討そのものに入ってもらえません。
そして、悪い情報を隠さないこと。赤字案件で情報を小出しにすると、DDで必ず露見し、そこから信頼が崩れます。最初から出したほうが、結果として条件は良くなります。
訴求の作り方|何を「資産」として示すか
赤字案件では、損益以外に何があるかを示す必要があります。買い手が価値を感じる要素を整理します。
- 顧客基盤:取引年数の長い顧客、参入障壁のある取引先、継続的な受注
- 技術・設備:代替の難しい加工技術、更新済みの設備、認証や規格
- 人材:採用が難しい有資格者、熟練の技能者、若手の在籍
- 許認可:取得に時間や要件を要する許可・登録
- 立地・不動産:代替の難しい場所、自社所有の土地建物
- ブランド・実績:地域での認知、公的機関との取引実績
訴求を作るときのコツは、「買い手が自前で用意するとどれだけ大変か」に置き換えて説明することです。「この許認可は取得に相応の期間と要件を要します」「この技能者を採用するのは容易ではありません」——買い手の立場で価値が伝わる言葉にします。
ただし、数字を創作しないこと。「この顧客基盤には◯億円の価値があります」といった根拠のない主張は、信頼を失うだけです。事実を並べ、評価は買い手に委ねる。これが赤字案件でも守るべき原則です。IMの作り方は「IM(企業概要書)の書き方」を参照してください。
候補の選び方も変わります。赤字案件では、「この会社の資産を最も活かせるのは誰か」という視点で候補を絞ります。同業で稼働に余力がある会社、その地域に拠点が欲しい会社、その資格者を採用したい会社。動機の読み方は「事業会社の買収動機を読む」を参考にしてください。
価格と条件の設計|不確実性を条件で吸収する
赤字案件では、価格の議論が難航しがちです。収益からの評価が成り立ちにくく、買い手はリスクを織り込みたがるからです。実務では、価格の水準だけで折り合おうとせず、条件で不確実性を吸収する設計を検討します。
- 純資産を基礎とした考え方:資産と負債の実態を精査したうえで評価する。考え方は「純資産(時価純資産)による評価」を参照
- 支払いの分割:一括ではなく、一定期間に分けて支払う設計
- アーンアウト条項:承継後の業績に応じて追加の対価を支払う設計。指標と期間の定め方が肝心
- 役員退職金との組み合わせ:税務の取扱いは必ず税理士に確認する
- 負債や個人保証の扱い:誰が、いつ、どう引き受けるかを明確にする
- 不採算部門の切り離し:会社分割や事業譲渡で対象を絞る設計も検討される
これらは組み合わせて使うものですが、複雑にしすぎると当事者が理解できなくなる点に注意してください。オーナーが自分の言葉で説明できない条件は、合意しても後で揉めます。
また、赤字案件では売却によってオーナーの手元に残る金額が想定より小さくなることが多くあります。借入の返済、個人保証の処理、税務の負担を差し引いた後に何が残るのか。試算そのものは税理士に依頼し、仲介者は「確認すべき項目」を漏れなく提示する役割を担ってください。
売り手オーナーへの説明|期待値と時間
赤字案件で最も難しいのは、価格でも買い手探しでもなく、オーナーへの説明です。長年経営してきた会社に、想定より低い評価がつく。この現実をどう伝えるかで、案件の行方が決まります。
- 早い段階で正直に伝える:期待を持たせて後から下げるのが、最も信頼を損ないます
- 数字の根拠を示す:「安いです」ではなく、「買い手はここをこう見ています」と構造で説明する
- 時間がかかることを共有する:黒字案件より候補は限られ、検討にも時間がかかります
- 選択肢を並べる:今譲るのか、改善してから譲るのか、廃業と比較してどうか。判断材料を揃える
- 金銭以外の価値を確認する:従業員の雇用、取引先への責任、事業の存続——オーナーが本当に守りたいものを聞く
最後の点が重要です。赤字案件でオーナーが最終的に納得されるのは、金額ではなく「この会社と従業員を引き受けてくれる相手が見つかった」という事実であることが多い。仲介者としては、この価値を軽んじず、しかし美化もせず、事実として伝えてください。
なお、廃業との比較も現実的な検討です。廃業には廃業のコストと時間がかかります。「廃業とM&Aの比較」の観点を、判断材料として提示してください。オーナーの心理的な受け止めについては「オーナー心理の理解」も参考になります。
進め方の注意|情報開示と時間の管理
最後に、赤字案件を進めるうえでの実務上の注意を挙げます。
- 資金繰りを常に把握する:検討期間中に資金が尽きれば、案件そのものが成立しません。月次ではなく、状況によっては週次で確認する
- 悪化の兆候を早く共有する:主要取引先の離脱、キーパーソンの退職——買い手に隠すと、後で契約上の問題になります
- 打診の範囲は絞る:赤字であるという情報が広がると、取引先や従業員に影響が及びます
- 期限を決めて進める:だらだらと候補を探し続けると、事業の状態がさらに悪化します。区切りを設けて判断する
- 再生の枠組みへの切り替えを判断する:資金繰りが逼迫してきたら、通常のM&Aから再生の枠組みへ移行する必要があります。この判断は専門家と行います
赤字案件は、手間がかかり、報酬も大きくならず、成約率も高くありません。それでも取り組む価値があるのは、ここで承継が決まらなければ、その事業と雇用が失われるからです。黒字の会社は、放っておいても買い手が現れます。仲介者の存在意義が最も試されるのは、むしろこちらの案件です。
正確に分解し、事実で訴求し、条件で吸収し、正直に説明する。この四つを守れば、赤字案件でも道は開けます。