本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。中小企業の案件で、資料づくりの精度がいちばん分かれるのが法人契約の保険です。貸借対照表に載っている金額と、いま解約したら戻ってくる金額が違う。契約者は法人だが被保険者はオーナー個人で、受取人が親族になっている。金融機関の担保として質権が設定されている。——どれも、書類を見なければ分かりません。個人資産と法人資産の切り分け全般は「個人資産と法人資産の切り分け」で扱っているので、本稿は保険一本に絞って、確認の手順と資料への落とし方を深く見ていきます。税務上の取扱いについては、必ず税理士にご確認ください。本稿では税額の計算や有利不利の設計には立ち入りません。

なぜ保険が論点になるか|資産にも負債にも見える

法人契約の保険が案件で効いてくる理由は、四つあります。

  • 帳簿に出ていない価値がある:保険料の一部または全部を費用処理している契約は、解約返戻金があっても資産計上されていない。買い手から見れば、簿外の資産
  • 帳簿に出ていない負担がある:契約者貸付を受けていると、解約時に返戻金から差し引かれる。質権が設定されていれば自由に解約できない
  • オーナーの退任と連動する:被保険者がオーナー個人の契約は、退任後に法人が保有し続ける意味が乏しい
  • 退職金の原資として想定されている:ここが、譲渡対価の話と交差する

つまり保険は、資産として書くべき面と、制約として書くべき面の両方を持ちます。解約返戻金の額だけを書いて質権や契約者貸付を落とすのは、有利な側だけを書いた資料です。両方を同じ表に並べてください。

まず全契約を並べる|証券と契約内容通知書を集める

保険は、契約書が社長の机の引き出しにあることが珍しくありません。次の経路で拾います。

  • 保険証券:原本または写し。ここに契約者・被保険者・受取人・保険期間が書いてある
  • 契約内容のお知らせ(年次の通知):現時点の解約返戻金額が記載されていることが多い。いつ時点の金額かを必ず確認する
  • 総勘定元帳:保険料、支払保険料、長期前払費用、保険積立金。科目がばらついているので複数見る
  • 法人税の申告書別表:資産計上の状況が読み取れる場合がある
  • 金融機関との取引:融資の条件として質権が設定されている場合、金銭消費貸借契約書に記載がある

一覧の列は次のとおりです。

なぜ要るか
保険種類(定期/終身/養老/医療/損害保険など)返戻金の有無と性格が違う
契約者法人か個人か。譲渡対象に含まれるかが決まる
被保険者オーナー個人か、役員か、従業員か
死亡保険金受取人・満期受取人法人か、親族か。法人でなければ会社の資産ではない
保険期間・払込期間・払込方法今後の支払負担が続くか
年間保険料損益への影響。譲渡後も続くコストか
解約返戻金(時点を明記)簿価との差が論点になる
資産計上額(簿価)上との差額が簿外の価値または損失
契約者貸付の残高返戻金から差し引かれる
質権設定の有無自由に解約・名義変更できない

四つの落とし穴|数字が動くのはここ

一覧をつくる過程で、ほぼ必ず引っかかるのが次の四つです。

① 契約者・被保険者・受取人がずれている。契約者が法人で、被保険者がオーナー、死亡保険金の受取人が配偶者になっている契約があります。この場合、法人が保険料を負担しているのに、保険金は法人に入りません。買い手から見れば「会社の資産ではない支出」です。事実として書き、譲渡対象から外すのか、受取人を変更するのかを論点にします。

② 解約返戻金が簿外になっている。保険料を全額費用処理している契約では、返戻金があっても資産に載りません。逆に、資産計上額のほうが返戻金より大きい契約もあります。どちらも同じ表に、同じ精度で書きます。簿外の含み益だけを書いて、含み損の契約を落とさないでください。

③ 契約者貸付・自動振替貸付。保険会社から借りている状態で、解約返戻金から差し引かれます。資金繰りが厳しかった時期に利用し、そのままになっていることがあります。返戻金の額をそのまま資産として書くと、実際に受け取れる額と食い違います。残高を必ず確認してください。

④ 質権設定。融資の担保として保険に質権が設定されていると、解約も名義変更も金融機関の同意なしにはできません。経営者保証の解除と同じ工程で金融機関と話すことになります(「経営者保証の解除実務」)。

会計・税務上の処理がどうあるべきかは、契約の種類と加入時期によって扱いが異なり、通達の改正もあります。処理の適否と税務上の取扱いについては、必ず税理士にご確認ください。仲介者の役割は、事実を集めて表にし、論点を明示することです。

退職金原資との関係|譲渡対価と切り分けて考える

「保険は社長の退職金の原資です」という説明は、現場でよく聞きます。ここを丁寧に扱わないと、後で認識の食い違いが出ます。

確認するのは次の点です。

  • 役員退職慰労金規程があるか。ある場合、支給基準(功績倍率など)がどう定められているか
  • 過去に役員退職金を支給した実績があるか
  • 退任の時期:クロージング時か、引継ぎ期間の後か(「引き継ぎ期間の設計」)
  • 誰が決議するか:株主総会の決議が必要であり、譲渡後は買い手が株主になる
  • 原資:保険の解約返戻金で賄うのか、手元資金からか

ここで押さえておくべき構造があります。役員退職金を会社から支給すれば、会社の純資産はその分減ります。つまり、株式の譲渡対価と退職金は、別々に増やせるものではありません。この点を先に説明しておかないと、「退職金は別にもらえると思っていた」という食い違いが、交渉の終盤に出てきます。

また、役員退職給与の損金算入には要件があり、不相当に高額とされる部分は損金に算入されないという定めがあります。金額の妥当性、支給の時期、決議の手続、税務上の取扱いは、すべて税理士・弁護士にご確認いただく領域です。仲介者が金額を提案したり、税負担の有利不利で設計を誘導したりすることはありません。こちらの役割は、「この論点はいつまでに、誰が決める必要があるか」を工程に置くことです。

名義変更と解約をどう扱うか|工程に置いて、記録に残す

被保険者がオーナー個人の契約は、譲渡後に法人が持ち続ける意味が乏しいのが通常です。実務では、次のいずれかになります。

扱い決めておくこと
クロージング前に解約解約返戻金が法人に入るため、純資産が動く。価格の前提にどう反映するか
契約者をオーナー個人に変更変更の対価をどうするか、いつ行うか、保険会社の手続と所要期間
そのまま法人に残す買い手が保険料の支払いを継続することになる。了解が取れているか

どれを選ぶかは売り手と買い手が決めることで、決めた内容を最終契約の前提条件や誓約事項に落とし込みます(「クロージング前提条件の管理」)。口頭で合意しただけで契約書に落とさないと、クロージング後に揉めます。

ここで、一つはっきりさせておきたいことがあります。名義変更を「税負担を軽くする手段」として設計することは、仲介者の役割ではありません。契約者の変更に伴う評価や課税の取扱いは通達で定められており、改正もあります。適用の判断は税理士の領域です。仲介者が有利不利を語ると、事実と違ったときに責任を負えません。こちらは、契約の実態を正確に把握し、選択肢と、それぞれで決めるべきことを整理してお渡しします。

最後に、資料への書き方をまとめます。保険の項目では、解約返戻金の合計だけを一行で書かないでください。契約ごとに、返戻金・簿価・契約者貸付・質権・受取人を並べます。返戻金の時点(いつ現在の数字か)も必ず添えます。会社にとって有利に働く契約も、負担になっている契約も、同じ表に、同じ列で並べる。これが保険の整理の基本です。

本稿は仲介実務の一般的な型を解説するものであり、個別案件における税務・法務・労務の適用は、税理士・弁護士・社会保険労務士等の専門家にご確認ください。

よくあるご質問

A.契約ごとに、解約返戻金額とその時点、資産計上額(簿価)、契約者貸付の残高、質権設定の有無を並べて書いてください。返戻金の総額だけを一行で書くと、実際に受け取れる額と食い違うことがあります。契約者貸付があれば返戻金から差し引かれ、質権が設定されていれば解約自体に金融機関の同意が要ります。有利に働く契約も、簿価が返戻金を上回る契約も、同じ表に同じ精度で並べるのが原則です。
A.会社から役員退職金を支給すれば、その分だけ会社の純資産は減ります。株式の譲渡対価と退職金を、それぞれ独立に増やせるわけではありません。この構造は交渉の早い段階で共有しておかないと、終盤で認識の食い違いが表面化します。支給の可否・金額の妥当性・時期・税務上の取扱いは、税理士および弁護士にご確認ください。仲介者は、いつまでに誰が決める必要があるかを工程に置く役割です。
A.まず質権の設定や契約者貸付の有無を確認してください。設定があれば、金融機関や保険会社の手続が先に必要になります。次に、変更の対価をどうするか、いつ実行するかを売り手と買い手で合意し、最終契約の前提条件や誓約事項に落とし込みます。名義変更に伴う評価や課税の取扱いは通達で定められており改正もあるため、必ず税理士にご確認ください。仲介者が税負担の有利不利を理由に設計を誘導することはありません。
A.概要は載せます。ただし保険会社名や証券番号は特定につながることがあるため、企業概要書の段階では種類・契約者・被保険者の区分・返戻金の水準・質権の有無といった粒度で書き、明細はデューデリジェンスの資料として提出するのが一般的です。重要なのは、簿外の価値や制約が存在することを早い段階で示しておくことで、後から出てきて価格の前提が崩れる事態を避けられます。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら