本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。基本合意を結び、調査も進み、あとは最終契約という段になって、売り手の口調が変わることがあります。連絡が返ってこない、「少し考えたい」と言われる、決まっていたはずのことを聞き直される。この局面での仲介者の振る舞いは、案件の結果だけでなく、その方のこれからの人生の納得度にまで関わります。結論から言えば、急かさないことが原則です。本稿では、その原則をどう実務に落とすかを整理します。初期段階の心理への向き合い方は「オーナーの心理に寄り添う」もご覧ください。
揺れは異常ではない
まず、担当者自身が理解しておくべきことがあります。合意後に気持ちが揺れるのは、異常なことではありません。経営者にとって会社は、何十年もの時間と、家族や従業員との関係と、自分が何者であるかという感覚が重なったものです。それを手放す決断をした後に迷いが出るのは、むしろ真剣に考えている証拠です。
にもかかわらず、担当者が焦るのはなぜか。日程が動く、社内の見込みが崩れる、買い手に説明しなければならない——いずれもこちら側の事情です。こちら側の事情から出た言葉は、相手に必ず伝わります。「ここまで来て今さら」「買い手さんに何と言えば」という言い方は、本人が抱えているものの大きさを軽く扱っていることになります。
この局面で自分の判断が鈍っていないかを点検する方法は「自分の判断が鈍っているサイン」で扱っています。成約を望む気持ちが強いほど、相手の迷いが「解消すべき障害」に見えてきます。そう見え始めたら、いったん自分の言葉を止めて、上司や同僚に相談してください。
揺れの正体を分ける
「迷っている」という一言の中身は、案件ごとに違います。対応も変わるので、まず何に揺れているのかを分けます。分けるための問いは、「何が変わったら、気持ちが落ち着きますか」です。
| 揺れの正体 | 現れ方 | できること |
|---|---|---|
| 条件への不安 | 価格、雇用、屋号、引き継ぎ期間など具体的な条項を繰り返し確認する | 事実を確認し、必要なら買い手に照会する。条件は交渉の対象なので、動かせる余地を示す |
| 情報の不足 | 「よく分からないまま進んでいる気がする」 | これまでの経緯と、残りの工程を一枚にして渡す。分からない箇所を特定して説明し直す |
| 喪失感 | 会社や従業員の話を繰り返す。条件の話にはならない | 条件の説明を足しても解決しない。聞く。急がない。譲渡後の生活の話を一緒に具体化する |
| 周囲の声 | 家族・親族・幹部・顧問の意見が出てくる | 誰が何を心配しているかを確認し、その方に直接説明する場を設けられないか相談する |
| 買い手への不信 | 相手方の言動について繰り返し触れる | 事実関係を確認する。必要なら面談の場を設け直す。不信の根が残ったまま進めない |
ここで大事なのは、喪失感に条件の説明を返さないことです。「価格は他社より良い条件です」「雇用は守られます」と返しても、手放すこと自体の寂しさには届きません。届かない返答を重ねると、「この人は分かってくれない」という気持ちだけが残ります。
やってはいけない対応
次の四つは、当社では行いません。いずれも短期的には案件を前に進めるように見えて、結果として依頼者の判断を歪めます。
- 期限で追い込む:「独占交渉期間が切れます」「今月中でないと買い手が下ります」といった言い方で決断を迫ること。実際に期限があるなら事実として伝えますが、事実の共有と、圧力をかけることは違います。「◯日に期限が来ます。延長を申し入れることもできます」と、選択肢を添えて伝えます
- 費用で縛る:「ここでやめると費用が無駄になります」という言い方。費用は正確に説明すべきですが、それを翻意させる道具に使ってはいけません
- 周囲を使う:本人を説得するために、家族や幹部、紹介者に働きかけること
- 連絡を増やして圧をかける:返事がないときに毎日連絡すること。待つことも仕事のうちです
代わりにやることは単純です。一度、時間を置く提案をこちらから出す。「来週まで、この件は一度置きましょう。私からは連絡しません。考えがまとまったらご連絡ください」と伝える。追いかけられていない状態で初めて、人は自分の考えを整理できます。買い手に対しては、売り手の内心を伝えるのではなく、「確認に時間をいただいています」と事実の範囲で共有し、日程の見直しを相談します。
費用の話は、正確に伝える
揺れている方から必ず聞かれるのが、「いまやめたら、費用はどうなるのか」です。ここは正確に、過不足なく答えます。不安を和らげたいからといって軽く言うのも、翻意させたいからといって重く言うのも、どちらも誤りです。
当社の場合、相談料・着手金・月額報酬はいただいておりません。中間金は基本合意の締結時にお支払いいただくもので、成功報酬額の10%です。成約に至った場合は成功報酬から全額を差し引きますが、基本合意後に不成立となった場合、返金はいたしません。したがって、基本合意より前の段階で進めないという結論になった場合と、基本合意の後でそうなった場合とでは、ご負担が異なります。詳しい体系は料金体系のページに記載しています。
この説明は、揺れたときに初めて行うものではありません。受託時と基本合意の前に、同じ内容を書面で説明しておくべきものです(「不成立時の費用の説明」)。あの時点で聞いていた、という状態を作っておくことが、この局面での信頼を支えます。逆に、揺れたときに初めて費用の話が出てくると、どれほど正確に説明しても「引き止めるために言っている」と受け取られます。
進めないという結論を受け止める
最終的に「やはり今回は見送りたい」という結論になることがあります。そのときの振る舞いが、その会社と担当者の質を決めます。
- 理由を責めない。「なぜですか」と問い詰めない。話していただける範囲で伺い、記録に残す
- 買い手に誠実に伝える。相手方も時間と費用をかけています。伝え方は「買い手からの辞退連絡」の裏返しとして、事実を早く、正確に伝える
- 手続きを閉じる。開示した資料の取り扱い、秘密保持の継続、残っている書面の処理を一つずつ片づける
- 関係を閉じない。数年後に状況が変わって再び相談をいただくこともあります。「またお声がけください」を社交辞令にしない
- 振り返る。どの段階で何を確認しておけばよかったのか。責任追及ではなく、型を直すために記録する(「破談案件の振り返り方」)
この仕事は、成約させることが目的ではありません。依頼者が納得して決めることが目的です。納得しないまま進んだ譲渡は、譲渡後に必ず形を変えて現れます。承継先との関係がぎくしゃくする、引き継ぎに身が入らない、従業員に迷いが伝わる。急かして調印まで持っていくことは、長い目で見れば誰の利益にもなりません。双方が納得して続く取引にするために、この局面では待つことが最も専門的な仕事になります。
よくあるご質問
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