本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。譲渡を決めた経営者が最後まで気にするのは、価格ではなく人のことです。「従業員の雇用は守られますか」「給与は下がりませんか」という問いに、アドバイザーはどう答え、どこまでを契約に落とすのか。ここを曖昧にしたまま「大丈夫です」と答えるのが、実務で最も危ういやり方です。ここでは、条項にできることとできないこと、売り手への説明の仕方、条項以外に効くものを整理します。社内への開示当日の設計は「従業員への開示当日」を参照してください。

売り手がいちばん気にするのは、人のこと

譲渡の相談を受けていると、価格の話よりも先に「うちの社員はどうなりますか」と聞かれることがよくあります。何十年も一緒に働いてきた人たちであり、経営者にとっては会社を手放すことそのものより重い問いです。

この問いに対して、アドバイザーがしてはいけない答えが二つあります。一つは「大丈夫です、守られます」と根拠なく言い切ること。もう一つは「契約に書けば安心です」と条項の効き目を過大に説明することです。どちらも、その場では売り手が安心しますが、譲渡後に想定と違うことが起きたとき、売り手は自分が説明を受けた内容と現実の差に向き合うことになります。そのとき最も傷つくのは、信じて託した経営者です。

正しい進め方は、契約で担保できる部分と、できない部分を分けて説明し、できない部分を別の方法で確かめることです。この整理ができるアドバイザーは、売り手から深く信頼されます。

条項にできること・できないこと

最終契約に従業員に関する定めを置くこと自体は一般的です。ただし、定めの性質はさまざまで、効き目も異なります。

書きたい内容実務での扱い
従業員の雇用を継続する株式譲渡では、会社と従業員の雇用契約はそのまま続くのが原則。条項は方針の確認としての意味が中心になる
一定期間、労働条件を不利益に変更しない期間を区切った形であれば定めが置かれることがある。期間の長さは交渉の対象
解雇しない将来の事情を問わず約束する形は、買い手が受け入れにくい。「本件を理由として」といった限定が付くのが通例
役職・勤務地を維持する経営の裁量に関わるため、努力目標として書かれることが多い
退職金制度を維持する制度の承継として整理できる場合がある。既存の積立や規程の扱いを含めて確認が必要
特定の個人の処遇を約束する本人の同意なく第三者間で決めることには限界がある

表の「実務での扱い」は一般的な傾向であり、実際にどう書けるか、書いた条項がどういう効力を持つかは個別の契約文言と事案によって変わります。条項の設計と評価は弁護士の領域ですので、必ず確認してください。アドバイザーは法律事務を行いません。

努力義務と拘束力の差を、どう説明するか

売り手に説明するときの言葉づかいを決めておきます。難しいのは、正確に言おうとすると冷たく聞こえ、温かく言おうとすると不正確になる点です。次のような順序で話すと、両立します。

  • まず事実を言う:「株式を譲渡しても、従業員の方と会社の雇用契約はそのまま続きます。会社そのものは変わらないからです」
  • 次に限界を言う:「ただし、将来の経営判断まで契約で縛ることはできません。何年も先の事業環境まで買い手が約束することは、現実には難しいのです」
  • そのうえで、できることを示す:「一定期間は労働条件を不利益に変更しない、という形であれば書面に落とせることがあります。何をどこまで書けるかは、弁護士に確認しながら詰めていきます」
  • 最後に、別の確かめ方を示す:「加えて、買い手がこれまでどう会社を引き継いできたかを確認します。書面より、その実績のほうが実際には参考になります」

この四段で話すと、売り手は「守ってもらえないのか」ではなく「何が確かで、何を自分で確かめるべきか」を理解します。不確かなことを不確かなまま伝えるのは、冷たさではなく誠実さだと考えてください。

条項より効くもの|買い手の実績・方針・順番

実務では、条項の文言よりも次の三つのほうが、譲渡後の従業員の状態に効いています。

  • 買い手のこれまでの引き継ぎ方:過去に会社を引き継いだ経験があるなら、そのときに従業員がどうなったかを聞きます。公表されていない範囲でも、トップ面談で買い手自身の言葉として聞くことに意味があります。答え方そのものが、その買い手の姿勢を表します
  • 統合の方針が具体的かどうか:「大切にします」で終わる買い手と、「当面は現行の給与体系を維持し、評価制度は一年かけて説明しながら揃える」と言える買い手とでは、準備の厚みが違います
  • 従業員への伝え方の設計に、買い手が関与するか:開示の場に買い手が出て、自分の言葉で話す意思があるか。ここを面倒がる買い手は、統合の局面でも同じ姿勢になりがちです

仲介者は、これらをトップ面談や条件交渉の過程で自然に聞き出し、売り手へ伝えます。条項は最低限の枠であり、実際に効くのは買い手の姿勢であるという順序を、売り手にも共有しておくことが大切です。引き継ぎ期間の設計は「引き継ぎ期間の設計」も併せてご覧ください。

書いたあとの運用|誰がいつ確認するか

条項を入れて契約を締結したら終わり、ではありません。書いたものが実際にどう運用されているかを、どの時点で誰が確認するのかを決めておきます。

時期確認すること誰が
開示の直後説明された内容と契約の定めに食い違いがないか仲介者が双方に確認する
引き継ぎ期間中労働条件の変更が実際に生じていないか。旧オーナーが社内で受けている質問の内容旧オーナーと仲介者
期間の満了前定めた期間が終わることを双方が認識しているか仲介者が事前に声をかける

三行目が抜けやすい項目です。「一定期間は変更しない」という定めは、その期間が終われば変更しうるという意味でもあります。売り手が「ずっと守られる」と受け取ったまま期間満了を迎えると、後になって不信が生まれます。契約の段階で「この定めは何年間のものです」と明確に伝え、満了が近づいたら改めて一言添える。それだけで、売り手の受け止め方はまったく違います。

なお、仲介者が成約後にどこまで関与するかには範囲があります。「クロージング後の仲介者の役割」で線引きを整理していますので、併せてお読みください。

本稿は仲介実務の一般的な型を解説するものです。労働法令の適用や契約条項の解釈は弁護士・社会保険労務士に、税務の取り扱いは税理士にご確認ください。アドバイザーは法律事務・税務代理を行いません。

よくあるご質問

A.株式譲渡では会社そのものは存続し、従業員の方と会社との雇用契約もそのまま続くのが原則です。譲渡を理由に雇用契約が終了するという仕組みではありません。ただし、将来の経営判断まで契約で縛ることはできませんので、契約の定めに加えて、買い手がこれまでどのように会社を引き継いできたかを確認することをおすすめしています。個別の労働法令の適用は、弁護士・社会保険労務士にご確認ください。
A.書面に定めを置くこと自体は一般的ですが、その条項が何をどこまで担保するかは文言と事案によって変わります。期間を区切った形で労働条件の不利益変更を行わないと定める例はありますが、将来のあらゆる事情を問わず約束する形は買い手が受け入れにくいのが実情です。書ける内容と効力については、必ず弁護士にご確認ください。
A.誠実な買い手であれば、従業員を気にかける売り手の姿勢はむしろ信頼につながります。引かれるのは、実現できない内容を求めたときです。だからこそ、何が書けて何が書けないかを早い段階で整理し、書ける形で申し入れることが重要になります。曖昧な要望のまま終盤に持ち出すと、条件の再調整につながります。
A.成約後の関与には範囲があります。引き継ぎ期間中にご相談を受けることはありますが、譲渡後の会社経営に介入する立場ではありません。仲介者が行うのは、開示時の説明と契約の定めに食い違いがないかの確認、期間の定めがある条項については満了時期を双方が認識しているかの確認までです。その範囲をあらかじめお伝えしています。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら