本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。「まだ売ると決めたわけではないのですが」——初回相談の冒頭がこの一言から始まることは、珍しくありません。新人がここでつまずくのは、この言葉を見込みの薄さとして受け取ってしまうからです。実際は逆で、決めていない段階で社外の人間に話すという行為そのものが、相当の覚悟を伴っています。決めていない人に決めさせるのは仲介者の仕事ではありません。決めるために必要な材料を、順番に、偏りなく渡すことが仕事です。本稿では、結論を出させない前提で面談をどう設計し、何を渡し、その後どう関係を続けるかを型にします。

「決めていない」は断りではなく、相談の最も多い入口

まず、何が決まっていないのかを分解してください。「決めていない」と一括りにすると、渡すべき材料を間違えます。実務では、次の五つのどこで止まっているかを聞き分けます。

決まっていないことよくある背景この面談でできること
譲るかどうか他の選択肢を比べたことがない選択肢の全体像を並べる
いつ譲るか年齢・体調・業績の波で揺れている工程と所要期間の目安を示す
誰に譲るか親族・従業員の可能性を残しているそれぞれの進め方と留意点を整理する
いくらなら納得か価値の考え方を知らない何を足し何を引くかの考え方だけ伝える
家族・従業員にいつ話すか切り出し方が分からない情報が誰にどう伝わるかを説明する

五つのうちどれが止まっているかで、その日の面談の中身は変わります。全部が止まっている方も当然いますが、その場合でも一度に全部を動かそうとしないでください。止まっている箇所を本人と一緒に言語化するだけでも、その面談には十分な価値があります。

面談のゴールを「決断」に置かない|三つの成果

決めていない方との面談で、案件化や契約をゴールに置くと、話し方が必ず変わります。相手はそれを敏感に察知します。この面談の成果は、次の三つで測ってください。

  • 選択肢の地図ができた:第三者への譲渡だけでなく、親族内承継・従業員承継・当面の継続も並べて理解できた
  • 判断材料と順番が分かった:次に何を調べ、誰に相談すればよいかが具体化した
  • 次にいつ話すかが決まった:相手が決めた間隔で、次の接点が置かれた

この三つが満たされていれば、その日に何も決まらなくても面談は成功です。社内の共有でも同じ基準で扱ってください。案件化しなかった面談を失敗として扱う運用にすると、現場は無意識に相手を急がせます。急がせない設計は、心がけではなく、社内の評価の置き方で決まります。

期待値の揃え方そのものについては「期待値調整の技術」も併せてお読みください。

何を、どの順番で渡すか

渡す材料には順番があります。先に金額の話をすると、その後のすべてが金額に引きずられます。次の順で渡してください。

  1. 選択肢の全体像:親族内承継、従業員承継、第三者への譲渡、当面の継続。それぞれの前提と、決断までに要する準備の違い
  2. 手順と期間:相手探しから最終契約・クロージングまで、一般には半年から一年以上かかること。工程ごとに何が起きるか
  3. 費用の枠組み:当社の場合、相談料・着手金・月額報酬は0円です。基本合意の時点で中間金として成功報酬額の10%をお預かりし、これは成功報酬から全額を差し引きますが、基本合意後に不成立となった場合、返金はいたしません。成功報酬は移動総資産レーマン方式(基準額=株式価値+負債総額)で最低2,000万円(税別)です
  4. 情報がどこまで伝わるか:社内の誰が知るのか、買い手候補に何を、いつ、どの承諾を得てから出すのか
  5. やめる自由:検討の途中でも、いつでも止められること

三番目の費用を曖昧にしたまま「まずは無料ですから」とだけ言うのは、後で必ず不信を招きます。0円である範囲と、費用が発生する時点の両方を、同じ場で言い切ってください。詳しい体系は料金・手数料のページに整理しています。

決めていない方に、やってはいけない五つ

次の五つは、その場では前に進んだように見えて、ほぼ確実に信頼を失います。

  • 期限を作る:「今なら買い手がいます」「制度が変わる前に」。制度の変更に触れる必要があるときは、一次資料の内容を中立に伝え、具体的な適用は税理士にご確認くださいと添えるにとどめます
  • 概算価格を動機づけに使う:資料を見ていない段階の金額は必ず一人歩きします。後で下方修正すれば、それまでの説明もすべて疑われます
  • 先に専任の契約を求める:判断材料が揃っていない段階の契約は、依頼者の利益になりません
  • 他社への相談を妨げる:当社は他社へのご相談やセカンドオピニオンを制限しません。比べたうえで選んでいただくほうが、後の進行が安定します
  • 家族や後継者候補への相談を先送りさせる:「まだ言わないほうがいい」という助言は、外部の人間が軽々にしてよいものではありません

いずれも共通しているのは、相手の不安や恐れに働きかけて動かそうとしているという点です。助言と誘導の境目はここにあります。判断に必要な事実を増やすのが助言、判断する時間を減らすのが誘導だと覚えてください。

面談後の間合い|急がせずに関係を続ける

決めていない相談ほど、面談後の運び方に差が出ます。

  • 当日中に要点を返す:伺った内容の要約、こちらの宿題と期限、次の接点の予定。個別情報の書き方は情報管理の観点で慎重に扱います
  • 次の連絡の間隔は相手に決めてもらう:「三か月後くらいに」と言われたら、その日に連絡します。こちらの都合で短くしない
  • 連絡する理由を情報にする:公表された制度改正や統計など、相手の判断材料になるものを添える。用件のない催促はしない
  • 検討段階を記録する:担当が変わっても同じ説明ができるように、何を伝え、どこで止まっているかを残す。記録の型は「顧客管理と接触履歴の残し方」を参照してください
  • 「今回は見送る」への返し方:理由を問い詰めず、必要になったときの連絡先だけを残して引く

長い付き合いの設計は「長期フォローの設計」で詳しく扱っています。数年の検討を経て動き出す方は多く、そのとき最初に連絡が来るのは、急がせなかった人です。

本稿は仲介実務の一般的な型を解説するものであり、個別案件における税務・法務・労務の具体的な適用は、税理士・弁護士・社会保険労務士等の専門家にご確認ください。

よくあるご質問

A.資料を拝見できれば、評価の考え方と簡易的な試算はお示しします。ただし金額を決断の動機づけに使うことはしません。資料を見ずに口頭で金額を出すことは、後で必ず認識のずれを生むため避けています。
A.しません。判断材料が揃っていない段階で契約を勧めることは、依頼者の利益に反します。当社は相談料・着手金・月額報酬が0円ですから、経営者の方に考える時間をお渡しすること自体に費用はかかりません。
A.どうぞお比べくださいとお伝えし、比較の軸(手数料の体系と基準額の定義、契約形態、途中解約の条件、情報の取り扱い)をこちらからお渡しします。比較を妨げることはしません。
A.記録を残し、相手が決めた間隔で接点を持ちます。件数のために連絡を増やすことはしません。検討の段階と、いつ何をお伝えしたかを残しておけば、担当が変わっても同じ説明ができます。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら