本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。最終契約書のドラフトが届いたとき、新人は分量に圧倒されます。しかし、売り手が本当に影響を受ける条項は限られています。仲介者の仕事は法的助言ではなく、どこを弁護士と重点的に確認すべきかを売り手に示すことです。ここでは株式譲渡契約(SPA)の主要条項を、売り手が特に見る順に整理します。交渉の進め方そのものは「最終契約(SPA)の交渉実務」を、契約書の位置づけは「基本合意書と最終契約書の違い」を併せて確認してください。

契約書の構造を頭に入れる|六つのブロック

SPAは長く見えますが、構造は共通しています。次の六つのブロックとして読むと、初めてのドラフトでも迷いません。

  • 1. 何を、いくらで、いつ譲渡するか(譲渡の合意、譲渡価格、クロージング日)
  • 2. 実行の条件(クロージングの前提条件、実行の手続)
  • 3. 当事者が保証すること(表明保証)
  • 4. 当事者が約束すること(誓約事項。クロージング前・後の両方)
  • 5. 違反したときの処理(補償、特別補償、解除)
  • 6. 一般条項(秘密保持、公表、費用負担、準拠法・管轄、通知)

売り手にとって金銭的なリスクが集中するのは3と5、時間的な拘束が生じるのは4、案件が実行されるかどうかを決めるのが2です。1はすでに交渉済みの内容が落ちているだけのことが多いので、確認は照合作業になります。

読むときは、必ず論点表を作ってください。列は「条項番号/内容の要約/売り手への影響/確認事項/弁護士の見解/合意状況」。修正の往復をメール本文でやると必ず抜けます。表を一枚回すのが実務の基本です。

譲渡の実行条項と価格|金額・調整・支払方法

最初に照合するのは、金額まわりが交渉の合意どおりかどうかです。次の点を確認します。

  • 譲渡の対象:株式数、発行済株式総数に対する割合。100%譲渡なのに端数の株が残っていないか
  • 譲渡価格:総額と、1株あたりの単価。基本合意からの変更点が反映されているか
  • 価格調整条項:調整の有無、対象(運転資本・純有利子負債など)、基準額、算定方法、確定の手続と期限、争いが生じた場合の解決方法
  • 支払方法:支払日、振込先、分割の有無、後払い部分の条件
  • 留保・エスクロー:一部を留保する場合、留保額・期間・解放の条件

価格調整条項は、条文を読んだだけでは影響が分かりません。実際の数字を入れて試算することを勧めます。直近の月次試算表を使い、「この計算式だと、いま決済したら調整額はいくらになるか」を出してみる。売り手には金額で説明するのが最も伝わります。調整の考え方は「価格調整の考え方」で整理しています。

役員退職慰労金を組み合わせる設計になっている場合は、支給の決議、支給時期、原資、税務上の取り扱いが契約と整合しているかを確認します。ここは税務の判断が必要なので、必ず顧問税理士に確認してもらってください。仲介者が税務上の結論を断定してはいけません。

クロージングの前提条件|「誰が何をすれば実行されるか」

前提条件は、成約までの作業リストそのものです。売り手が満たすべき条件、買い手が満たすべき条件を分けて読み、それぞれに担当者と期限を割り当てます。典型的な条件を挙げます。

条件主な担当注意点
表明保証が真実かつ正確であること売り手クロージング日時点でも成立している必要がある
誓約事項を履行していること双方期間中の禁止事項の遵守を含む
株式譲渡の承認決議売り手譲渡制限株式の場合。議事録の準備が要る
重要な契約先からの同意取得売り手支配権変動条項がある契約。取得に時間がかかる
許認可の承継・届出売り手・買い手業種によって手続と所要期間が大きく異なる
キーパーソンの継続勤務の確認売り手従業員への開示時期と密接に関係する
買い手の社内承認・資金調達の完了買い手こちらから進捗を確認しないと後ろにずれる
重大な悪影響が生じていないこと定義の広さが論点。広すぎると実行が不安定になる

売り手側で確認したいのは、「自分の努力では満たせない条件が入っていないか」です。取引先の同意のように相手の判断に依存する条件は、満たせなければクロージングできません。同意取得の見込みが立たない先が含まれている場合は、対象を限定するか、代替措置を協議します。前提条件の管理は「クロージング前提条件の管理」で詳しく扱います。

表明保証と補償|売り手のリスクが集中する箇所

売り手にとって最も金銭的な影響が大きいのが、この二つの条項です。仲介者が説明すべき骨格は次のとおりです。

表明保証

売り手が「会社と株式について、これらは真実です」と表明し、保証する条項です。項目は多岐にわたり、株式の有効性、財務諸表の正確性、簿外債務の不存在、労務、契約、許認可、訴訟、税務などが並びます。売り手が確認すべきは、①知り得ない事項まで無限定に保証していないか、②「知る限り」などの限定が必要な項目に入っているか、③開示した事項が除外されているかの三点です。範囲と期間の交渉は「表明保証の範囲と期間」で扱います。

補償

表明保証違反や誓約違反があった場合に、損害を賠償する条項です。売り手が特に見るのは次の点です。

  • 補償の上限額:譲渡価格の全額か、一定割合か。上限がない設計は売り手にとって重い
  • 請求できる期間:クロージングから何年か。税務は課税関係の期間に合わせて長めに設定されることが多い
  • 下限(足切り):一定額以下の少額請求を除外する仕組みがあるか
  • 手続:通知の期限、第三者から請求を受けた場合の対応の取り決め
  • 唯一の救済かどうか:補償条項が唯一の救済手段とされているか

仲介者は、これらの条項を「もし◯◯が起きたら、売り手はいくらまで、いつまで責任を負うのか」という具体的な質問に置き換えて説明してください。条文の解説ではなく、影響の説明が仲介者の役割です。法的な評価は必ず売り手側の弁護士に委ねます。

誓約事項と解除条項|クロージング後まで続く義務

誓約事項には、クロージング前のものと後のものがあります。

クロージング前は、通常の業務の維持、重要な財産の処分の禁止、他の候補との交渉禁止、情報提供義務など。売り手が普段どおり経営できる例外が書かれているかを確認します。

クロージング後は、売り手に長く影響します。よく見る条項は次のとおりです。

  • 競業避止義務:期間、地域、対象事業の範囲。範囲が広すぎると、売り手の今後の活動が過度に制限されます
  • 勧誘禁止:従業員や取引先への勧誘の禁止。期間の確認が必要
  • 秘密保持:期間と例外
  • 引き継ぎ・協力義務:関与の期間、内容、報酬の有無。無償で無期限の協力義務になっていないか
  • 個人保証の解除への協力:買い手側の協力義務が明記されているか

競業避止義務は、売り手が「引退するつもりだから関係ない」と軽く見がちな条項です。しかし、数年後に別の事業を始めたくなる方は少なくありません。範囲と期間は必ず具体的に説明し、納得のうえで合意してもらってください。引き継ぎ期間の設計は「引き継ぎ期間の設計」で扱います。

解除条項では、いつまで解除できるのか、どのような場合に解除できるのかを確認します。クロージング後の解除を認める設計は実務上まれですが、クロージング前の解除事由の広さは論点になります。ここも弁護士の領域です。仲介者は「解除されるとどうなるか(費用の負担、情報の返還、次の展開)」を実務面から説明する役に徹してください。

本稿は仲介実務の一般的な型を解説するものであり、個別案件における法的・税務的判断は、弁護士・税理士等の専門家にご確認ください。

よくあるご質問

A.法的な評価や助言は行いません。仲介者の役割は、どの条項が売り手にどのような実務上の影響を及ぼすかを整理し、弁護士と重点的に確認すべき箇所を示すことです。たとえば「補償の上限がない設計になっているので、上限と期間を弁護士に確認してください」と論点を提示するのは仲介者の仕事ですが、「この条項なら問題ありません」と結論を述べることは越権であり、避けなければなりません。
A.数字を入れて試算するのが最も伝わります。直近の月次試算表を使い、「この計算式で、いま決済したら調整額はいくらになるか」を出してみてください。条文を読み上げるだけでは、売り手は自分の手取りへの影響を実感できません。あわせて、季節変動が大きい事業の場合は、決済時期によって調整額が変わりうることも説明しておきます。
A.期間・地域・対象事業の三点を具体的に確認し、売り手に必ず説明してください。引退するつもりだから関係ないと考える方は多いのですが、数年後に別の事業を始めたくなるケースは珍しくありません。範囲が過度に広い場合は、対象を実際の事業に即した形に限定できないか協議します。条項の有効性そのものの評価は弁護士に委ねてください。

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執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら