本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。担当交代は、この仕事では珍しいことではありません。異動、退職、体調、案件の重なり、専門性による分担——理由はさまざまです。問題は交代そのものではなく、準備なく交代することです。半年かけて築いた信頼が、たった一度の雑な引き継ぎで消え、案件が止まることがあります。ここでは引き継ぎ資料の作り方、数字にならない情報の渡し方、当事者への伝え方、交代後30日の運び方を書きます。日々の記録の型は「面談・電話の記録の残し方」を前提にしています。

担当交代は珍しくない。準備がないことが問題

当事者から見ると、担当交代は不安な出来事です。「一から説明し直すのか」「新しい人は経緯を分かっているのか」「うちは軽く扱われているのではないか」。この三つの不安に、交代の初日から答えられるかどうかがすべてです。

そのために必要なのは、交代が決まってから作る引き継ぎ資料ではありません。日々の記録が引き継ぎ資料になっている状態です。案件フォルダを開けば経緯が分かり、面談記録を読めば決定事項と保留事項が分かる。そうなっていれば、引き継ぎは数時間で済みます。逆に、担当者の頭の中にしか情報がない案件は、引き継ぎ不能です。

「自分しか分からない案件」を持つことは、実務者として誇るべきことではありません。組織で守れない案件は、担当者に何かあった瞬間に依頼者が困ります。属人化しない運びは、依頼者への責任の一部です。

引き継ぎ資料に必要な項目

引き継ぎ資料は、一枚のシートにまとめます。項目は次のとおりです。

項目書く内容
1. 案件の概要コード名、業種、規模感、譲渡を検討する背景、希望条件の優先順位
2. 当事者の関係者誰が決定権者か、誰が同席するか、社内で誰まで知っているか、顧問税理士・弁護士の関与状況
3. 現在の進捗いまどの工程か、次のアクションと期限、相手ボールか自社ボールか
4. 合意事項これまでに合意した条件と、その根拠となる記録の所在
5. 保留・未決事項まだ決まっていない論点と、なぜ決まっていないか
6. 契約関係仲介契約・秘密保持契約の締結状況、期間、報酬の説明状況
7. 資料の所在受領済み資料の一覧と保管場所、未受領の資料
8. 打診の履歴どの候補に、いつ、どこまで開示したか。除外先リスト
9. 口頭で交わした約束連絡方法、時間帯、同席者の可否、伏せている相手など運用上の約束
10. 注意事項過去に地雷になった話題、感情的になりやすい論点

このうち9と10が、引き継ぎの成否を分けます。書面には残りにくく、しかし破ると一瞬で信頼を失う情報だからです。「奥様が同席のときは価格の話をしない」「経理担当には伏せている」「前回の面談で従業員の話になり、感情的になった」。こうした情報を漏らさず渡してください。打診履歴の管理は「打診の順番をどう決めるか」の記録運用に沿って残しておくと、そのまま引き継げます。

数字にならない情報をどう渡すか|温度・力関係・地雷

シートに書ける情報を渡した後、必ず口頭で30分の時間を取ります。ここで渡すのは次のようなことです。

  • 温度:いま前向きなのか、迷っているのか。何が決断を止めているのか
  • 力関係:表の窓口と実際の決定権者が違う場合の実態。家族や後継候補の影響力
  • 話し方の好み:結論から聞きたい人か、経緯を丁寧に聞きたい人か。資料を読む人か、口頭を好む人か
  • 時間の感覚:急いでいるのか、じっくり考えたいのか。返信が遅いのは性格か多忙か
  • 地雷:触れると空気が変わる話題。過去に説明を誤って気まずくなった箇所

これらは主観的な情報なので、必ず「事実」と「前任者の見立て」を分けて伝えてください。新担当が前任者の見立てを事実として持ち込むと、目の前の相手を誤って読むことになります。「前任者はこう見ていた。ただし自分の目で確かめる」——これが正しい受け取り方です。

当事者への伝え方と、挨拶の順番

交代の連絡は、順番が大事です。

  • 1. 前任者から連絡する:交代の事実と理由(簡潔に)、新担当の紹介、引き継ぎが済んでいることを伝える。メールではなく、電話や面談など直接の手段で
  • 2. 引き継ぎ面談を設定する:前任者と新担当が同席し、経緯を新担当の口から確認する。「私はここまで把握しています」と示すことが、相手の最大の不安を消す
  • 3. 窓口と連絡方法を明確にする:今後の連絡先、緊急時の連絡先、前任者がどこまで関わるかをはっきり伝える
  • 4. 直後の予定を提示する:「来週◯日に◯◯をご報告します」と、具体的な次の接点を置く

買い手候補が動いている案件では、買い手側にも同じ手順で連絡します。片方だけに伝えて、もう一方が後から知る状況は避けてください。仲介という立場では、双方に同じ丁寧さで接することが前提です。

やってはいけないのは、交代の連絡をメール一通で済ませることと、理由を曖昧にしたまま濁すことです。当事者は「何かあったのか」と勘ぐります。詳細を語る必要はありませんが、隠す姿勢は不信を生みます。

交代後30日の運び方

新担当がやるべきことは、最初の30日に集中しています。

  • 最初の一週間で、経緯を自分の言葉で再構成する:記録を読み込み、時系列を自分で書き直す。読むだけでは頭に入らない
  • 早い段階で一つ、約束を果たす:小さくてよいので、期限どおりに何かを届ける。信頼は言葉ではなく、返しの速さで作られる
  • 合意事項を書面で再確認する:「これまでの合意事項は以下と理解しています」と一覧を送り、認識を揃える。ここで食い違いが出れば、早い段階で直せる
  • 前任者のやり方を否定しない:「前の担当のやり方は違いますが」は、当事者の判断を否定することにもなる。改善は静かに実行する
  • 30日後に、進捗を一度まとめて報告する:交代によって案件が止まっていないことを、事実で示す

引き継ぎが上手くいったかどうかは、交代から一か月後に当事者が誰に連絡しているかで分かります。新担当に直接連絡が来るようになっていれば成功、前任者に連絡が行き続けているなら、まだ移行できていません。その場合は前任者と相談し、もう一度同席の場を作ってください。案件の進捗管理そのものは「案件パイプライン管理の実務」の型で共有しておくと、交代の負担が大きく減ります。

本稿は仲介実務の一般的な型を解説するものであり、個別案件における法的・税務的判断は、弁護士・税理士等の専門家にご確認ください。

よくあるご質問

A.交代の事実、新担当の紹介、引き継ぎが済んでいること、これまでの経緯を新担当が把握していること、窓口と連絡先の変更点を、この順で伝えます。理由を過度に説明する必要はありませんが、隠す必要もありません。大切なのは「担当が変わっても案件の進み方は変わらない」と行動で示すことで、そのためには交代直後の対応の速さが最も効きます。
A.口頭で交わした約束と、当事者の温度感です。書面や資料は残っていますが、「価格の話は奥様の同席時にしない」「経理担当には案件を伏せている」といった運用上の約束は記録に残りにくく、しかも破ると信頼を一瞬で失います。引き継ぎ資料に「口頭で交わした約束」の欄を必ず設けてください。
A.最初の面談への同席と、当初一か月程度の相談役までが目安です。前任者が窓口として残り続けると、新担当への信頼が育たず、当事者も誰に聞けばよいか迷います。同席で顔をつなぎ、その後は新担当に完全に移すのが、結果として当事者のためになります。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら