本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。「結局、いくらで売れるんですか」。この問いに、新人アドバイザーはつい一つの数字で答えてしまいます。そして、その数字はオーナーの頭に焼き付き、以後の交渉すべてがその数字との比較になります。実務の作法はレンジで示すこと、そして幅の理由まで説明することです。本稿では、レンジの作り方、幅の決め方、条件の紐づけ方、相手別の示し方、更新の判断までを扱います。価格に関する会話の設計全般は「価格の説明の仕方」も参照してください。
なぜ一点で示してはいけないのか
理由は四つあります。
- ①価格は交渉で決まるから:評価は相場観の共有であって、価格そのものではありません。実際の価格は、手を挙げた買い手の提示で決まります
- ②買い手によって価値が違うから:同じ会社でも、シナジーの見込み、資金調達の条件、競合の有無で評価は変わります
- ③情報が増えると評価は動くから:デューデリジェンスで新たな事実が出れば、前提が変わります
- ④期待値が固定されるから:一点で示すと、それが「約束」に見える。下回れば裏切りに感じられ、上回っても「最初からそう言えばよかったのに」となります
四つ目が実務では最も重い。人は最初に聞いた数字に引きずられます。だから私は、初めて数字に触れる場面ほど、必ずレンジで話すことにしています。オーナーの心理については「オーナーの心理を理解する」も参考になります。
レンジの作り方|複数手法の重なりを取る
レンジは、恣意的に幅を持たせるものではありません。複数の評価手法の結果を並べ、その重なりを取るのが基本です。
- 時価純資産法:資産と負債を実態に直した水準。下値の目安になることが多い(「純資産法の実務」)
- 時価純資産+営業権(年買法):純資産に正常収益力の数年分を加えた水準。年数を幅で置くこと自体がレンジを生む
- 倍率法(EV/EBITDAなど):類似会社の倍率を当てはめた水準。倍率を幅で置く(「類似会社比較法の実務」)
- DCF:将来キャッシュフローに基づく水準。感度分析で幅が出る(「DCFを中小M&Aでどう使うか」)
これらを横棒グラフで並べると、重なる範囲が視覚的に分かります。重なりが広ければ幅の狭いレンジに、重なりが乏しければ幅の広いレンジになる。この作り方なら、幅そのものに根拠が生まれます。
なお、いずれの手法でも事業価値と株式価値を混同しないこと。倍率法とDCFは事業価値が出るため、ネットデットを控除して株式価値に直します。この工程を飛ばしたレンジは、案件が進んだ瞬間に崩れます(「ネットデットの算定実務」)。
幅の広さをどう決めるか
幅は、情報の確からしさと会社の性質から決まります。次の要素で考えてください。
| 幅が狭くなる要素 | 幅が広くなる要素 |
|---|---|
| 3期以上の収益が安定している | 期によって利益が大きく振れる |
| 資料が揃い、調整項目の根拠が明確 | 資料が限られ、調整の確度が低い |
| 顧客が分散し、契約が書面で残っている | 特定顧客への依存が高い、口頭の取引が多い |
| 組織で回っており、引継ぎの道筋がある | オーナー個人への依存が強い |
| 比較しやすい事業内容で、買い手候補が広い | 特殊な事業で、買い手が限られる |
| 不動産や大型設備が少なく、評価が単純 | 不動産・遊休資産の比重が大きい |
幅が広くなること自体は問題ではありません。問題なのは、幅の理由を説明できないことです。広いレンジを示すときは、必ず「今の情報ではここまでしか絞れません。◯◯が確認できれば絞れます」と、絞るための条件を添えてください。それが次の作業の指示にもなります。
上限と下限に条件を紐づける
レンジを示すとき、人は必ず上限を見ます。だから、上限と下限のそれぞれに条件を紐づける。これがレンジ提示の核心です。
- 上限に近づく条件:同業で明確なシナジーを見込む買い手が現れる/複数の候補が競合する/主要取引の継続見通しを具体的に示せる/キーパーソンの残留が見込める/オーナーが一定期間の引継ぎに応じる
- 下限に近づく条件:デューデリジェンスで簿外の負担が判明する/主要顧客との取引に不安がある/引継ぎ期間が確保できない/買い手候補が限られる/設備更新の必要性が大きい
この提示には、副次的だが決定的な効果があります。オーナーが「では、上限に近づけるには何をすればよいか」と聞いてくださる。そこから磨き上げの相談が始まります。価格の話を、対立ではなく協働に変えられるのです。磨き上げの全体像は「磨き上げとは」を参照してください。
逆に、条件を紐づけずに幅だけを示すと、オーナーは上限を期待し、買い手は下限を狙います。幅だけのレンジは、誰にとっても不便な情報です。
売り手への示し方と、買い手への示し方は違う
売り手への示し方
売り手には、評価の枠組みとして示します。手法ごとの結果を並べ、重なりを見せ、上限・下限の条件を説明する。金額より先に前提を話し、その場で結論を求めない。そして、「実際の価格は買い手が決めます」と必ず添える。この一言があるかないかで、後の期待値管理がまったく変わります。
希望価格がレンジの上限を大きく超える場合は、まず背景を聞いてください。過去に受けた打診の金額、同業者から聞いた話、借入の返済や引退後の生活に必要な額——必ず理由があります。理由が分かれば話す内容が変わりますし、金額の問題ではなく生活設計の問題であれば、手取りの試算から入る方が建設的です。ギャップへの向き合い方は「評価ギャップの埋め方」で扱います。
買い手への示し方
買い手に対しては、売り手の希望条件を伝える場面と評価の考え方を説明する場面を分けます。前者は売り手の意向、後者は算定の説明であり、性質が違います。
実務では、複数の候補に打診している場合、価格だけでなく条件全体で提案してもらうのが基本です。譲渡後の従業員の処遇、オーナーの引継ぎ期間、屋号の存続、支払方法とスケジュール——売り手にとって価格以外の要素が重要なことは珍しくありません。価格を単独で比べるのではなく、条件のまとまりとして比較する枠組みを作るのが仲介者の仕事です。複数候補の扱いは「複数の買い手候補を扱う実務」を参照してください。
レンジを更新するタイミングと、その伝え方
レンジは固定ではありません。情報が増えれば動きます。更新すべき節目は次のとおりです。
- 決算が確定したとき:新しい期の数字が入れば、前提が変わる
- 調整項目の根拠が固まったとき:確度が上がれば幅は狭まる
- 簿外の負担が判明したとき:下方向に動く。早く伝える
- 打診の反応が出そろったとき:市場の反応は最も強い情報。関心が乏しければ、その事実を伝える
- デューデリジェンスの結果が出たとき:最終的な条件調整の前提になる
更新を伝えるときの原則は二つ。早く伝えることと、理由とセットで伝えることです。悪い方向への更新を先延ばしにすると、伝えたときの衝撃が大きくなり、信頼も失います。「◯◯が判明したため、レンジの下限が下がりました。理由はこうです」と、事実と理由を並べて伝えてください。伝え方の技術は「悪い知らせの伝え方」にまとめています。
そして、更新のたびに版と日付を残す。「◯月時点ではこう考えていたが、◯◯が分かったのでこう変わった」という経緯が説明できることが、アドバイザーの信頼を支えます。資料としての残し方は「簡易評価レポートの作り方」を参照してください。