動物病院を長く続けてこられた院長先生から、「そろそろ引退を考えたいが、後を任せられる獣医師がいない」というご相談をいただくことが増えています。診療技術も、飼い主との信頼関係も、地域での評判も築いてきた。それでも、承継となると途端に難しくなる——これは動物病院という業態が持つ、構造的な特徴に由来します。本稿では、動物病院のM&A・事業承継を検討する際に押さえるべき論点を、獣医師の確保・事業形態・カルテと飼い主基盤という三つの軸から整理します。
動物病院の承継が難しくなっている背景
後継者不在は日本の中小企業に広く共通する課題で、帝国データバンクの2025年調査では後継者不在率は50.1%とされています。動物病院の場合、これに加えて業態特有の事情が重なります。
子どもが必ずしも獣医師とは限らない
親族内承継が成立するには、後継者が獣医師の資格を持ち、かつ経営を引き受ける意思があるという二つの条件を満たす必要があります。医療系の資格職に共通する制約ですが、条件が二重にかかるため、親族内での承継が成立する確率はどうしても限られます。
院長個人に業務が集中しやすい
一人院長、あるいは院長と数名の動物看護職という体制の病院では、診療の判断も、機器の選定も、飼い主とのコミュニケーションも、院長に集中しがちです。この集中こそが病院の強みである一方、承継の局面では「院長が抜けたら何が残るのか」という問いを突きつけます。
設備投資の負担が重くなっている
画像診断機器や検査機器など、獣医療の設備は高度化が進んでいます。更新には相応の投資が必要で、引退が視野に入った時期に大きな投資判断を下すのは、心理的にも財務的にも簡単ではありません。結果として設備の更新が先送りされ、それがさらに承継を難しくするという循環が生じます。
こうした状況で、第三者への譲渡(M&A)は現実的な選択肢のひとつです。レコフデータによれば2025年のM&A件数は5,000件を超え、2年連続で過去最多となりました。会社や事業を第三者に引き継ぐという選択は、すでに特別なことではなくなっています。
資格者である獣医師をどう確保するか
動物病院のM&Aで最も重要な論点は、診療を担う獣医師をどう確保するかに尽きます。動物の診療は獣医師免許を持つ者が行う業務であり、この点は他の一般的な事業とは決定的に異なります。院長が退いた後、誰が診療するのか。この問いに答えられなければ、どれほど収益性が高くても事業は継続しません。
実務上、買い手側は次のいずれかの形で診療体制を組むことを想定します。
- 勤務獣医師がそのまま残る——すでに勤務している獣医師が引き続き診療を担う形。飼い主にとっての連続性が最も保たれるパターンです
- 買い手側が獣医師を派遣する——複数の病院を運営する法人が買い手となる場合、グループ内から獣医師を配置する形が取られることがあります
- 前院長が一定期間残る——譲渡後も前院長が非常勤等で診療に関与し、その間に新しい体制を整える形。移行期間の設計として広く用いられます
売り手として準備すべきなのは、現在の診療体制を可視化しておくことです。誰がどの診療を担当し、どの範囲まで対応できるのか。院長でなければ判断できない領域はどこか。これを整理して説明できるかどうかで、買い手が引き継ぎの絵を描けるかが決まります。属人性の高い事業をどう評価するかという論点は、他業種でも共通します。「サロン・美容室のM&A」でも近い課題を扱っていますので、あわせてご参照ください。
個人開業と法人|事業形態で変わる譲渡の設計
動物病院は、院長個人の名義で開業しているケースと、法人を設立して運営しているケースがあります。どちらであるかによって、譲渡の設計は大きく変わります。
| 比較項目 | 個人開業 | 法人 |
|---|---|---|
| 主な譲渡形態 | 事業譲渡(設備・内装・のれん等を個別に移転) | 株式譲渡(会社ごと引き継ぐ)が中心 |
| 契約・届出の扱い | 賃貸借契約、リース、届出等を個別に名義変更・再手続き | 会社が当事者のまま存続するため、原則として個別の移転手続きは不要 |
| 従業員の雇用 | いったん退職し、譲受側と新たに雇用契約を結ぶのが一般的 | 雇用関係は会社に帰属したまま継続 |
| 売り手の受け取り方 | 事業譲渡の対価を個人事業主として受け取る | 株主が株式の譲渡対価を受け取る |
| 準備期間の目安感 | 個別手続きが多く、比較的長めに見ておく必要がある | 手続きは比較的シンプル |
個人開業の場合、「事業を構成する要素をひとつずつ移す」作業になります。診療用機器、内装、不動産の賃貸借契約、リース契約、各種届出、そしてカルテ。これらを漏れなく整理し、移転の可否と手続きを確認していく必要があります。手間はかかりますが、丁寧に進めれば十分に承継は可能です。
個人開業から法人への移行、事業譲渡と株式譲渡それぞれの税務上の取扱い、届出の手続要件は、状況によって結論が変わります。株式の譲渡益に対する課税は20.315%(所得税15%+復興特別所得税0.315%+住民税5%)とされていますが、事業譲渡の場合は課税の考え方が異なります。個別の要件は税理士等の専門家にご確認ください。
カルテ・飼い主基盤の引き継ぎで注意すること
動物病院の事業価値の中核にあるのは、通ってくださる飼い主との関係です。そしてその関係を支える記録がカルテです。承継にあたっては、この二つをどう引き継ぐかが最大の実務課題になります。
カルテという記録の扱い
カルテには、動物の病歴・投薬歴・アレルギー・手術歴といった診療上不可欠な情報と、飼い主の氏名・連絡先という個人情報が含まれます。承継後も継続的な診療を行うためには、この記録の引き継ぎが欠かせません。同時に、個人情報を含む以上、その取扱いには適切な手続きと配慮が求められます。紙カルテか電子カルテか、電子であればどのシステムを使っており移行が可能か、といった実務的な確認も必要です。個人情報の取扱いに関する具体的な手続きは、専門家にご確認ください。
飼い主に「変わらない」と感じてもらう
飼い主が動物病院を選ぶ理由は、立地だけではありません。院長の説明の仕方、看護スタッフの応対、待合室の雰囲気——こうした日常的な体験の総体が、通院先を決めています。したがって承継の局面では、何が変わり、何が変わらないのかを明確に伝えることが定着率を左右します。
実務上よく取られるのは、譲渡後も一定期間は前院長が診療に関与し、飼い主に新しい獣医師を直接紹介したうえで、段階的に移行していく形です。突然の交代を避け、看護スタッフが残ることで日常の接点が保たれれば、飼い主の不安は大きく和らぎます。
買い手が見る評価ポイント
買い手候補が動物病院を検討するとき、確認するのは概ね次の項目です。
- 診療圏——商圏内の世帯数、ペット飼育世帯の分布、近隣の動物病院の状況、交通アクセスと駐車場
- 来院データ——月別の来院件数、新規と再来の比率、予防医療(ワクチン・フィラリア等)と一般診療・手術の構成
- 収益構造——診療収入・物販・トリミングやペットホテルなど附帯サービスの内訳と季節変動
- 人員体制——獣医師と動物看護職の人数・経験年数・勤続年数、シフト体制、譲渡後の残留意向
- 設備——診療機器・検査機器の設置年と稼働状況、今後必要な更新投資、リース契約の残存期間
- 物件——自己所有か賃借か、賃借の場合は契約期間と更新条件、承継にあたり貸主の同意が必要かどうか
- 引き継ぎ可能性——院長個人に集中している役割のうち、どこまでを組織として引き継げるか
このうち買い手が最も注意深く見るのは、最後の引き継ぎ可能性です。数字がよくても「院長がいなくなれば成り立たない」と判断されれば、評価は下がります。逆に、体制として説明できる部分が多いほど、買い手は将来の絵を描きやすくなります。この考え方は企業価値評価の基本にも通じるもので、「実質利益(正常収益力)の考え方」もあわせてお読みいただくと理解が深まります。相場の考え方については「会社売却の相場」もご参照ください。
承継を成功させるための準備と進め方
動物病院の承継を検討するにあたり、早い段階で着手しておくとよい準備を整理します。
- 決算書と診療データの整理——直近数期の決算書に加え、月別来院件数や診療区分別の収入内訳を出せるようにしておく
- 院長の業務の棚卸し——院長でなければできない業務と、他の獣医師・看護職に移せる業務を分けて書き出す
- 契約書類の確認——物件の賃貸借契約、機器のリース契約、取引先との契約について、承継時に相手方の同意が必要かを確認する
- カルテの状態確認——紙か電子か、電子ならデータの移行可能性、保管状況を確認する
- スタッフへの伝え方の設計——誰に、いつ、何を伝えるかを事前に決めておく
特に最後の点は重要です。承継の検討が早い段階で外部に漏れると、スタッフの離職や飼い主の不安を招き、事業価値そのものを損ないかねません。開示は条件が固まり、買い手の方針が明確になった段階で、院長ご自身の言葉で行うのが基本です。詳しくは「M&Aと従業員への説明」で整理しています。
まとめ|「誰が診るか」から逆算して考える
動物病院のM&Aは、獣医師という資格者の確保を出発点として設計されます。院長が退いた後、誰が診療を担い、飼い主との関係をどう保つのか——この問いに答えられる形をつくることが、承継の実質そのものです。
そのためには時間が要ります。引退の時期が具体的に見えてから動き出すのではなく、余裕を持って選択肢を検討し、体制を整えていくことが、結果として院長先生ご自身にとっても、スタッフにとっても、そして飼い主と動物たちにとっても、最も良い着地につながります。検討開始の目安については「M&Aを検討すべきタイミング」もご覧ください。