M&Aの交渉が始まると、想像以上に多くのことが論点になります。価格、支払い方法、クロージングの時期、経営者の残留期間、従業員の処遇、社名の扱い、経営者保証の解除、表明保証の範囲、競業避止の期間——数え上げれば20を超えます。
これらすべてについて自社の希望を通そうとすると、交渉は必ず行き詰まります。買い手にも譲れない線があるからです。したがって、交渉に臨む前に、自分の中で順位をつけておくことが不可欠です。本稿では、その作業の進め方を具体的に整理します。
交渉されるのは、価格だけではない
まず、論点の全体像を把握しておきましょう。中小企業のM&Aで実際に交渉になる主な条件は、次のように分類できます。
| 領域 | 主な条件 |
|---|---|
| 対価 | 譲渡価格、支払い方法(一括・分割)、条件付きの対価の有無、役員退職金との組み合わせ、価格調整の仕組み |
| 時期 | クロージングの時期、デューデリジェンスの期間、開示のタイミング |
| 経営者 | 残留の有無・期間・役職・報酬、競業避止義務の範囲と期間、経営者保証の解除 |
| 従業員 | 雇用の維持、労働条件の維持期間、キーマンの処遇、退職金制度の扱い |
| 会社 | 社名・屋号の継続、事業所の存続、取引先との関係の継承、社内制度の扱い |
| 責任 | 表明保証の範囲、補償の上限と期間、特別補償の有無、誓約事項 |
| 資産 | 社宅・車両など経営者個人に関わる資産の扱い、役員借入金の精算、保険契約の名義 |
この一覧を見て、「思ったより多い」と感じられたとしたら、それが本稿の出発点です。交渉の場でこれらが次々に提示されると、その場の判断で答えることになり、後から「なぜあのとき受け入れてしまったのか」という後悔が生まれます。
条件を、まず全部書き出す
優先順位をつける前に、やるべきことがあります。自分の希望を、全部言葉にすることです。
これが意外に難しい。多くの経営者様は、漠然とした願いは持っていても、それを条件の形にはしていません。「従業員には迷惑をかけたくない」は願いであって条件ではありません。条件にするなら、次のような形になります。
- 「クロージング後3年間、経済的な理由による整理解雇を行わない」
- 「給与水準を、クロージング時点から引き下げない」
- 「退職金制度を、現行の水準で維持する」
- 「主要な事業所を、少なくとも◯年は現在地で継続する」
願いを条件に翻訳する作業には、時間がかかります。ご家族や、信頼できる幹部と話しながら整理される方もいます。この段階では、実現可能性を気にせず、思っていることをすべて書き出してください。絞るのは次の工程です。
書き出しの手がかり
手が止まったら、次の問いを使ってみてください。
- 譲渡から5年後、会社を訪ねたときに何が残っていてほしいか
- 従業員に「よかったですね」と言われるとしたら、何についてか
- これだけは絶対に嫌だと感じるのは、どんな状態か
- 譲渡後、自分は何をして過ごしているつもりか
- ご家族が心配していることは何か
必須・希望・譲歩可能の3層に仕分ける
書き出した条件を、次の3つに仕分けます。
| 層 | 定義 | 交渉での扱い |
|---|---|---|
| A. 必須 | これが満たされないなら、その相手とは成約しない | 初期の段階で明示。譲らない |
| B. 希望 | できれば実現したいが、他の条件との兼ね合いで判断する | 交渉の材料として使う |
| C. 譲歩可能 | 言ってはみるが、通らなくても受け入れられる | 意図的に譲り、Aを守るために使う |
仕分けの基準は、ただひとつ。「これが通らなくても、譲渡してよいか」という問いに、はっきり「いいえ」と答えられるものだけがAです。
よくある仕分けの例
実務で多いパターンをご紹介します。ただし、これは正解ではなく、あくまで一例です。
- Aに入りやすいもの:経営者保証の解除、従業員の雇用維持、譲渡価格の最低ライン、主要事業所の継続
- Bに入りやすいもの:社名の継続、自分の残留期間、クロージングの時期、社宅・車両の扱い
- Cに入りやすいもの:役職名、細かな制度の維持、開示の細かなタイミング
経営者保証の解除がAに入りやすいのは、これが経営者様個人の資産に直結するからです。譲渡対価を受け取っても保証が残れば、実質的なリスクは消えません(「経営者保証は外せるか|M&Aによる個人保証解除の実務」)。
「価格」をどの層に置くか
価格については、金額そのものではなく「最低ライン」をAに置くのが実務的です。「◯円以上でなければ譲渡しない」という線を決めておき、それを上回る範囲では、他の条件との交換材料として扱う。この整理をしておくと、価格交渉のときに判断が揺れません。
「必須」は3つまでに絞る
ここが最も重要な助言です。Aの数は、多くても3つまでにしてください。
理由は単純です。必須条件が多いほど、それをすべて満たす買い手は少なくなります。5つも6つも必須があると、候補が事実上ゼロになるか、あるいは他の条件——たとえば価格——を大きく犠牲にすることになります。
また、交渉の場面でも効きます。必須が3つに絞られていれば、その3つについては一貫して譲らない姿勢を示せます。逆に、あれもこれも譲れないと主張すると、買い手からは「何が本当に大事なのかわからない相手」と映り、結果としてどの条件も軽く扱われます。
絞り方のコツ
4つ以上残ってしまったら、次のように考えてみてください。
- 他の条件で代替できないか:「社名の継続」が難しくても、「ブランド名の一部使用」で気持ちが収まるかもしれません
- 時限を切れないか:「雇用の永久維持」は買い手が約束できませんが、「3年間の維持」なら可能かもしれません
- 本当に自分の希望か:誰かに言われたから条件にしている、というものが混じっていないか
- 金銭で解決できないか:譲歩の見返りに価格を上げる、という形で処理できるものもあります
特に2つ目は有効です。「期間を区切る」だけで、多くの条件は交渉可能になります。買い手が約束できないのは無期限だからであって、期間限定であれば受け入れられることは珍しくありません。
決めた順位を、交渉のどこで使うか
順位を決めたら、それを実際の進行のどこで使うかを設計します。
① 支援機関に伝える(受託時)
まず、依頼する支援機関に必須条件を明確に伝えてください。買い手候補を探す段階から、その条件を満たせない相手は最初から除外できます。面談まで進んでから条件が合わないとわかるのは、双方にとって時間の損失です。
② ノンネーム・企業概要書に反映する(打診時)
譲渡条件の希望として、必須条件を記載します。この段階で示しておけば、買い手は前提として検討します。
③ トップ面談で直接伝える
書面で伝わっていても、経営者様ご自身の言葉で改めて伝えることには意味があります。特に従業員の雇用や社名など、心情に関わる条件は、口頭で伝わる重みが違います。
④ 意向表明書・基本合意で確認する
買い手から提示される意向表明書に、必須条件がどう書かれているかを確認します。「前向きに検討する」という表現と、「維持する」という表現では、意味がまったく違います。曖昧な書きぶりは、この段階で確認しておいてください。
⑤ 最終契約の条項に落とす
最終的には、契約書の条項として書き込めるかどうかがすべてです。誓約事項(コベナンツ)として、クロージング後の一定期間について買い手の義務を定める形が一般的です。違反した場合の効果まで含めて、弁護士に確認してください。
まとめ|順位は、迷ったときの拠り所になる
M&Aの交渉は、数か月にわたって続きます。その間、条件は少しずつ動き、判断を求められる場面が何度も訪れます。そのたびにゼロから考えていては、疲弊しますし、判断もぶれます。
あらかじめ順位を決めておけば、「これはBだから、価格と引き換えに譲ってよい」「これはAだから、ここは動かせない」と、その場で判断できます。順位は交渉の武器であると同時に、迷ったときに立ち返る拠り所でもあります。
そして、順位を決める作業そのものが、経営者様にとって意味を持ちます。何を守りたくて譲渡するのかが、自分の言葉ではっきりするからです。それは成約後、周囲に説明するときにも、ご自身が振り返るときにも、支えになります。後悔しない譲渡の考え方は「会社売却で後悔しないために|よくある後悔パターンと防ぎ方」もご参照ください。
当社プラチナパートナーズでは、受託前の段階から、守りたい条件を一緒に整理しています。相談料・着手金・月額報酬はいただいておりません。「何を条件にすればよいかわからない」という段階でも、お気軽にご相談ください。