会社を譲渡すると決めた経営者様が、最後まで悩まれるのが「従業員にどう伝えるか」です。多くの方が、伝える言葉そのものを考えようとされます。しかし実務の順序としては、その前にひとつ挟むべき工程があります。相手が何を不安に思っているのかを、先に把握することです。
経営者様は会社の将来を考えて譲渡を決断されます。ところが従業員が発表の場で聞きたいのは、会社の10年後ではありません。「来月の自分の給料はどうなるのか」「上司は誰になるのか」という、ごく身近な話です。この視点の差を埋めないまま説明すると、どれほど誠実に話しても伝わりません。
本稿では、従業員が抱く不安の中身を分解し、それに対して誰にどの順序で伝えるかを整理します。なお、開示をどの時点で行うかという判断そのものは「会社売却を従業員にいつ・どう伝えるか|開示のタイミングと注意点」で扱っていますので、本稿は「伝えると決めたあと」に焦点を絞ります。
従業員の不安は「会社」ではなく「自分」から始まる
M&Aの発表を受けた従業員の思考は、ほぼ例外なく次の順序で進みます。
- 第一段階:自分の身に何が起きるのか(雇用・給与・勤務地)
- 第二段階:自分の周囲はどうなるのか(上司・同僚・仕事の進め方)
- 第三段階:会社はどうなるのか(方針・将来・取引先)
経営者様の説明は、往々にしてこの逆順で組み立てられます。会社の将来像から語り始め、業界環境を説明し、最後に「皆さんの雇用は守られます」と付け加える。従業員が最初に知りたい情報が、最後に来てしまうわけです。
その間、聞き手は説明を聞きながら頭のなかで自分の生活の計算をしています。住宅ローン、子どもの進学、来年の昇給。そこに意識が向いている状態では、業界再編の話は耳に入りません。
したがって説明は、身近な話から遠い話へという順序で組み立てます。雇用と給与から入り、体制の話に移り、会社の方向性で締める。これだけで、同じ内容でも受け取られ方は大きく変わります。
不安を6つに分解する
「従業員が不安がる」とひとまとめにせず、中身を分けて考えます。実務でよく現れるのは次の6つです。
| 不安の種類 | 実際の心の声 | 説明で押さえる点 |
|---|---|---|
| ① 雇用 | 「クビになるのではないか」 | 株式譲渡では雇用契約が継続すること |
| ② 待遇 | 「給与や賞与が下がるのではないか」 | 現在の労働条件が当然には変わらないこと |
| ③ 人間関係 | 「上に誰が来るのか。合わなかったら」 | 当面の指揮命令系統がどうなるか |
| ④ 仕事のやり方 | 「ルールや管理が厳しくなるのでは」 | 変える予定のこと・当面変えないこと |
| ⑤ 社長の存在 | 「社長がいなくなったら誰に相談すれば」 | 経営者の関与の有無と期間 |
| ⑥ 感情 | 「なぜ相談してくれなかったのか」 | 秘密保持上、話せなかった理由 |
見落とされやすいのは⑤と⑥
①〜④は経営者様も想定されます。しかし説明会で実際にこじれる原因になりやすいのは、後半の2つです。
⑤の「社長の不在」は、条件面の不安ではなく喪失感です。長く勤めた従業員ほど、会社ではなく経営者個人に対して忠誠を持っています。「社長が辞める」という一点だけで動揺する人がいます。ここは条件の説明では埋まりません。経営者様がしばらく残るのであれば、その事実そのものが最大の安心材料になります(残留の形については「売却後も社長を続けられるか|残留の形と期間」をご覧ください)。
⑥は、内容ではなく手続きへの不満です。「大事なことを黙っていた」という感情は、条件がどれほど良くても残ります。これに対しては、秘密保持契約があったこと、情報が漏れれば取引先や金融機関の信用に影響し、かえって従業員に不利益が及ぶ可能性があったことを、率直に説明するほかありません。取り繕うと逆効果です。
伝える順序|誰に、どの範囲で、どの順番で
伝える相手を一度に全員とする必要はありません。実務では、次のような段階を踏むのが一般的です。
| 段階 | 対象 | 目的 |
|---|---|---|
| 第1段階 | 役員・後継的な立場の幹部 | 体制の維持。動揺の伝播を防ぐ |
| 第2段階 | キーマン(現場の要となる社員) | 離職の防止。引継ぎの協力を得る |
| 第3段階 | 管理職・部門長 | 部下からの質問に答えられる状態をつくる |
| 第4段階 | 全従業員 | 正式な発表。噂の発生を止める |
第3段階を飛ばさない
もっとも起きやすい失敗が、幹部の次にいきなり全社発表を行うことです。この場合、管理職が部下と同じタイミングで初めて知ることになります。翌日から部下に質問を浴びせられるのに、答えを持っていない。結果として「うちの部長も何も聞かされていないらしい」という情報が広がり、不安が増幅します。
全社発表の直前でかまわないので、管理職には先に伝え、想定問答を渡しておくことをお勧めします。答えを持っている中間層がいるかどうかで、発表後の空気は変わります。
間隔は詰める
段階を分ける一方で、各段階の間隔は可能なかぎり短くします。幹部への説明から全社発表まで数週間空けば、その間に必ず話は漏れます。噂が先に流れた状態での発表は、内容の是非以前に信頼を損ないます。同じ日のうちに、時間差で行うくらいの設計が安全です。
買い手に同席してもらう
全社発表の場に買い手の経営者に同席してもらい、直接語ってもらうことは有効です。従業員にとって最大の未知は「相手がどんな会社か」であり、これは人が見えれば大きく和らぎます。買い手側も、初日の印象が統合の成否に効くことを理解していますから、多くの場合協力してくれます。
最初の説明で必ず触れる5つのこと
最初の説明は、長さより網羅性です。次の5点は、質問される前にこちらから触れておきます。
- 雇用と労働条件——株式譲渡であれば雇用契約はそのまま続き、勤続年数も通算されること
- 当面の体制——誰が代表になり、日々の指揮命令は誰が行うのか
- 経営者自身の今後——残るのか、いつまでか、どういう立場か
- 相手をなぜ選んだか——価格ではなく、事業と人をどう評価してくれたか
- これから何が変わり、何が変わらないか——現時点で決まっていることと、未定のこと
「未定です」と言ってよい
最も避けるべきは、決まっていないことを決まったかのように話すことです。その場をしのぐための断定は、後で必ず食い違いとして表面化します。「まだ決まっていない。決まり次第、必ず伝える」と言うほうが、長期的には信頼を保てます。
ただし、未定の項目が多すぎる状態での発表は避けます。少なくとも雇用・待遇・当面の体制の3点は、発表前に買い手と握っておくべきです。契約でどこまで担保できるかは「従業員の雇用は守られるのか|契約でどう担保するか」で整理しています。
質問の時間を必ず設ける
その場では質問が出ないのが普通です。それでも時間を設ける意味はあります。加えて、後日個別に相談できる窓口——経営者様本人でも、人事担当でもかまいません——を明示してください。公の場で聞けない不安ほど、深刻な内容を含んでいます。
説明したあとの数週間に起きること
発表は終わりではなく、始まりです。多くの現場で、次のような動きが起きます。
① 数日は表面上、何も起きない
従業員は反応を保留します。周囲の様子を見て、自分の態度を決めようとするためです。静かだからうまくいったとは判断できません。
② 1〜2週間後に個別の相談が出始める
「自分の担当は変わるのか」「有給はどうなるのか」といった具体的な質問が、個別に出てきます。この段階の対応が、その後の定着を大きく左右します。質問が出てくること自体は良い兆候です。
③ 一部に転職を検討する動きが出る
これは一定程度は避けられません。重要なのは、辞める意思を固めきる前に話を聞くことです。多くの場合、決定的な不満ではなく、漠然とした不安が動機になっています。
④ 取引先経由で情報が戻ってくる
従業員が取引先から「聞いたよ」と言われるケースがあります。社外への説明と社内への説明の時間差は、できるだけ小さくしておくべきです(取引先への伝え方は「取引先はどう反応するか|信用不安を避ける進め方」で扱っています)。
まとめ|不安は消せないが、輪郭は与えられる
整理します。従業員の不安は「会社の将来」ではなく「自分の生活」から始まります。ですから説明も、雇用・待遇という身近な話から入り、体制、会社の方向性へと広げていく順序で組み立てます。
不安の中身は、雇用・待遇・人間関係・仕事のやり方・社長の不在・感情の6つに分解できます。前半4つは条件の説明で対応できますが、後半2つは説明ではなく態度で受け止めるほかありません。
伝える順序は、幹部、キーマン、管理職、全従業員という段階を踏み、各段階の間隔は詰めます。とりわけ管理職を飛ばさないこと。答えを持つ中間層がいるかどうかが、発表後の空気を決めます。
そして、不安そのものを消すことはできません。できるのは、「何が決まっていて、何が決まっていないか」の輪郭をはっきりさせることです。輪郭のない不安は際限なく膨らみますが、範囲の見えている不安は、時間とともに落ち着いていきます。
当社プラチナパートナーズでは、従業員への開示の設計——順序、想定問答、買い手の同席の段取り——を受託時から一緒に組み立てています。相談料・着手金・月額報酬はいただいておりません。「社員になんと言えばいいか分からない」という段階からで結構ですので、お気軽にご相談ください。