本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。中小企業のM&Aで、最も多くの案件で実際に手が動く評価手法は、時価純資産法です。理由は単純で、資料が揃いやすく、両当事者が検証しやすいから。しかし「簿価をそのまま足し引きする作業」と誤解している新人が少なくありません。純資産法の実務は、貸借対照表の一行ずつに「本当にこの金額なのか」と問い直す作業です。本稿では、資産・負債それぞれの時価修正の論点、修正一覧表の作り方、営業権の上乗せ、そしてオーナーへの説明までを扱います。手法の基礎は「時価純資産法とは」をご覧ください。

純資産法が中小M&Aで使われる理由

純資産法は、会社の資産を時価に直し、負債も時価に直し、その差額を株式価値とみなす手法です。将来の予測を必要としないため、DCFのように前提の置き方で結果が大きく動くことがありません。中小M&Aで重宝される理由は次の三点です。

  • 検証可能性が高い:登記、固定資産台帳、契約書、残高証明といった一次資料で確かめられる
  • 売り手が納得しやすい:「会社にこれだけの財産がある」という説明は、経営者の実感と結びつく
  • 下値の目安になる:収益力の評価が定まらない案件でも、価格の下限を考える出発点になる

一方で、限界もはっきりしています。純資産法は現時点の写真であって、将来の収益力を映しません。資産をほとんど持たないが利益は安定しているサービス業では、純資産法だけを見ると価値を大きく取り逃がします。だからこそ実務では、営業権を上乗せするか、倍率法・DCFの結果と並べてレンジで捉えます。

資産側の時価修正|不動産・在庫・債権・保険

資産の修正で押さえる項目を、影響の大きい順に並べます。

項目修正の考え方参照する資料
土地取得が古いほど簿価と実勢が乖離する。含み益にも含み損にもなる登記事項証明書、路線価、固定資産税評価額、公示地価、必要に応じ不動産鑑定
建物・構築物償却後簿価と実際の使用価値を確認。老朽化・用途限定の建物は減額もある固定資産台帳、修繕履歴、建築時期、現地確認
棚卸資産長期滞留・規格外・季節遅れの在庫を切り分ける品目別在庫年齢表、実地棚卸の記録
売掛金・受取手形回収可能性で区分。長期滞留債権は評価減を検討債権年齢表、入金履歴、取引先の状況
保険積立金解約返戻金相当額に置き換える。担保設定や退職金原資への紐付きを確認保険証券、解約返戻金推移表
有価証券・ゴルフ会員権時価に置き換える。市場性のないものは慎重に残高証明、直近の売買事例
貸付金・仮払金オーナーや関係会社向けは回収可能性を確認。非事業用として別掲する総勘定元帳、貸付契約書、返済実績
ソフトウェア・繰延資産換金価値がない資産は評価をゼロにする判断もある資産計上の内容、利用実態

実務で最も金額が動くのは不動産です。特に、創業期に取得した土地を今も保有している会社では、含み益が純資産を大きく押し上げます。ただし、その不動産が事業に不可欠なのか(工場敷地なのか)、それとも非事業用なのか(社長の趣味の別荘なのか)で扱いが変わります。事業に不可欠な資産は事業価値の一部であり、非事業用資産は別枠で加算する——この整理を最初にしておくと、後の説明が明快になります。不動産保有会社の論点は「不動産を保有する会社のM&A」も参照してください。

負債側の時価修正|退職給付・未払残業代・簿外債務

資産の修正には売り手も前向きに協力しますが、負債の修正は嫌がられます。しかしここを飛ばすと、デューデリジェンス(DD)で必ず露見し、価格の再交渉になります。次の項目は、受託段階から当たりをつけておいてください。

  • 退職給付:退職金規程がありながら引当を計上していない会社は多い。規程に基づく要支給額を試算し、引当不足分を負債に加える
  • 未払残業代:固定残業代の設計不備、管理監督者の範囲、みなし労働時間制の運用など、労務DDで最も指摘される領域
  • 賞与引当・有給休暇:支給が確実な賞与、未消化有給の負担を確認する
  • 税金・社会保険料の滞納:納税証明書で確認する。分割納付の合意がある場合は残額と条件を押さえる
  • 係争・保証:訴訟、取引先への債務保証、リース契約の残債、原状回復義務
  • 資産除去・環境:設備撤去費用、土壌汚染の可能性がある土地

簿外債務の全体像は「簿外債務とは」に、労務の論点は「労務DDで見られるポイント」にまとめています。仲介者としては、売り手に「隠さないほうが結果的に高く売れる」と伝えられるかどうかが腕の見せどころです。後から出てきた負債は、金額以上に信頼を毀損し、価格を必要以上に下げます。

修正一覧表の作り方|一行ごとに根拠を持たせる

修正の結論は、一枚の表にまとめます。私が使っている型は次のとおりです。

  • 列:勘定科目 / 簿価 / 修正額 / 時価 / 修正の理由 / 根拠資料名 / 確認日 / 確度(高・中・低)
  • 行:資産の部 → 負債の部 → 修正後純資産 の順で並べる
  • 非事業用資産は資産の部の中で別ブロックにし、事業用と混ぜない
  • 確度「低」の項目は本表から外し、参考欄に置く(EBITDA調整表と同じ考え方)
  • 金額の大きい上位5項目には、必ず一次資料の写しを添付できるようにしておく

この表があると、DDのQ&A対応がそのまま進みます。買い手側の会計士が最初に見るのは、まさにこの一覧だからです。逆に、修正後の数字だけを書いた資料は「どうやって出したのか」を毎回口頭で説明することになり、記録も残りません。資料整理の作法は「受領資料の整理術」も参照してください。

営業権をどう上乗せするか|年買法との接続

修正後純資産が出たら、次は営業権(のれん)をどう扱うかです。中小M&Aで広く使われる年買法は、修正後純資産に営業権相当額を加える考え方で、営業権を「正常収益力の数年分」として概算します。

ここで新人が誤りやすいのが、「何年分にするか」を先に決めてしまうことです。年数は結果であって前提ではありません。実務では、次の要素を検討したうえで幅を持って考えます。

  • 収益の安定性(何期にわたって同水準の利益を出しているか)
  • 顧客の分散度合いと契約の継続性
  • オーナー個人への依存の強さ(引継ぎが可能か)
  • 従業員の定着と、キーパーソンの残留見込み
  • 許認可・技術・立地といった代替しにくい要素の有無
  • 買い手にとってのシナジーの見込み

そして、上乗せする「正常収益力」は決算書の利益ではありません。役員報酬や一過性損益を調整した後の数字です。調整の考え方は「EBITDAの実務」を、年買法の基礎は「年買法(年倍法)とは」を参照してください。なお、営業権の年数は業種によって相場が決まっているものではありません。「この業種なら何年」と断定する説明はしないのが、私たちの姿勢です。

オーナーへの説明|「解散価値ではない」と伝える

純資産法の説明でオーナーが最も引っかかるのは、「うちの会社を解散したときの金額ということか」という点です。ここは丁寧に否定してください。時価純資産法は、会社を清算する前提の金額ではありません。清算するなら、退職金の一括支給、設備の処分損、取引の打ち切りによる損失が発生し、はるかに小さい金額になります。純資産法は「事業が続くことを前提に、今この会社が持っている財産の実態を測る」手法です。

説明の順序としては、①簿価と時価が違う理由(取得が古い、税務基準で処理している)、②資産側で増える項目、③負債側で増える項目、④修正後の純資産、⑤ここに営業権を乗せて価格の議論が始まる、の五段が分かりやすいと思います。特に③は言いにくい話ですが、先に伝えるほど後が楽になります。言いにくいことの伝え方は「悪い知らせの伝え方」も参考にしてください。

もう一つ、オーナーが期待しやすいのが「含み益のある不動産があるから高く売れるはずだ」という見立てです。事実そうなる案件もありますが、買い手が事業を買いたいのか不動産を買いたいのかで話が変わります。不動産の比重が大きい場合は、不動産を切り離す選択肢も含めて設計を検討してください。株式価値の考え方全体は「ネットデットの算定実務」とあわせて理解しておくと、説明が一貫します。

本稿は仲介実務の一般的な型を解説するものであり、個別案件における会計・税務・法務の判断は、公認会計士・税理士・弁護士等の専門家にご確認ください。

よくあるご質問

A.資産を多く持つ会社や、収益力が安定していない会社では出発点として有効ですが、それだけで決めるのは適切でない場合が多くあります。純資産法は現時点の資産と負債の差を測る手法であり、その会社が将来どれだけ稼ぐかを反映しないためです。実務では、修正後の純資産に営業権相当額を上乗せする、あるいは倍率法やDCFの結果と並べてレンジで捉える、という使い方をします。
A.相続税路線価、固定資産税評価額、公示地価や基準地価などの公表資料をまず参照し、金額が大きい場合や取引が想定される場合は不動産鑑定士の評価を検討します。重要なのは、どの資料をいつ時点で参照したかを記録に残すことです。中小企業では取得時期が古く簿価が実勢と大きく離れていることが多いため、この一項目だけで純資産が数千万円単位で動くこともあります。
A.直ちに不成立になるわけではありません。純資産がマイナスでも、安定した収益力や顧客基盤、許認可、人材といった価値を評価して買い手が現れる案件はあります。ただし、その場合は債務の整理方法や金融機関との調整が論点になり、通常の株式譲渡以外の手法を検討することもあります。早い段階で事実を把握し、売り手と選択肢を共有することが仲介者の役割です。

Join Us & Consultation

貸借対照表の一行ずつに、根拠を持てる人へ。

当社は、資産と負債の実態を丁寧に確かめ、経営者に噛み砕いて説明できるM&Aアドバイザーを募集しています。会計・不動産・金融のご経験を、事業承継の現場で活かしませんか。
会社の売却・事業承継をご検討の経営者の方は、無料相談(メール info@platinumpartners.jp でも可)から承ります。

Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら