本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。「実は、来月から入院することになりまして」。初回面談でこう切り出される相談があります。このとき最も避けたいのは、相手の焦りにこちらまで同調して、工程を飛ばしはじめることです。急ぐ理由が切実であるほど、飛ばした工程は必ず後で戻ってきます。一方で、通常どおりの段取りをそのまま当てはめるのも違います。限られた時間の中で、何を先に置き、何を落とさないのか。本稿では、時間の制約がある相談に対して、初期対応で何を確かめ、何を整え、ご家族とどう向き合うかを型にします。

「急いでいる」の中身を、静かに確かめる

健康に関わる話です。根掘り葉掘り聞くことではありません。ただし、何がいつまでにという制約なのかが分からないと、工程を組めません。聞くのは、病名でも予後でもなく、次の三点だけで足ります。

  • いつまでに、何がどうなっていればよいか:譲渡が完了していたいのか、相手が決まっていればよいのか、方向性が決まっていればよいのか。この三つは、必要な時間がまったく違います
  • その間、会社の意思決定は誰が行えるか:代表が動けない期間があるなら、誰が何を決められるのか
  • ご家族は、この相談をご存じか:株式や保証はご家族に及びます。ご存じない場合、進め方そのものが変わります

踏み込みすぎないための言い方も用意しておいてください。「差し支えのない範囲で結構です」「お答えにならなくても進め方は組めます」と先に添えてから伺います。踏み込む順番の設計は「初回面談で聞かないほうがよいこと」も併せてお読みください。

順序を変えてよいもの、変えてはいけないもの

時間が限られるときに現場が迷うのは、「どこを圧縮できるか」です。実務上、次のように分かれます。

工程圧縮の可否理由
資料の整備並行化できる完璧に揃うのを待たず、あるものから着手できる
企業価値の試算簡易版を先に置ける確定値でなくとも方向性の判断には足りる
買い手候補の抽出並行化できる資料整備と同時に進められる
株主の確定圧縮できないここが未確定だと最終契約まで進めない
保証・担保の確認圧縮できない金融機関の同意には日数が要る
ご家族への共有圧縮できない後から知らされた側の不信は取り返せない

圧縮できるのは並行化できる作業であり、相手のあることは圧縮できません。金融機関、許認可の官庁、買い手の社内決裁。ここを「急いでいますので」で短縮しようとすると、相手の心証を損ねて、かえって遅くなります。期間の説明の仕方は「想定スケジュールの立て方」に整理しています。

初期に先に置いておく三つ

急ぐ相談で、最初の二週間に置いておくと後がまったく違うものが三つあります。いずれも譲渡そのものではなく、譲渡が止まらないための備えです。

  1. 意思決定の代替:代表が動けない期間に、誰が何を決められるのか。委任の範囲、取締役会の構成、印章の管理。法的な整え方は弁護士にご確認いただく領域ですが、確認が必要だと早く気づくことが仲介者の役割です
  2. 株式の所在:株主名簿、名義株の有無、相続で分散していないか、未分割のものがないか。ここが後から崩れると、工程の最後で止まります
  3. 資料の所在:どこに何があるのか。経営者ご本人しか知らない状態を、早めに解いておく

この三つは、仮に譲渡に進まなかったとしても、会社にとって無駄になりません。譲渡のための準備ではなく、会社が続くための準備として提案できる点が大切です。これなら、まだ決めていない方にも、ご家族にも、説明が通ります。

急ぐことで失うもの|先に伝えておく

期待値の調整は、この局面でこそ必要です。急ぐと何が起きるのかを、最初に率直にお伝えしてください。後から「そんな話は聞いていない」となるのが最も苦しい展開です。

  • 打診先の幅が狭くなる:検討に時間のかかる相手を外さざるを得ない場面が出ます。結果として、比較できる候補が減ります
  • 条件交渉の余地が狭くなる:期限があると分かれば、交渉の力関係は変わります。だからこそ、急ぐ事情をどこまで相手に伝えるかは慎重に決めます
  • 準備不足が価格の調整として返ってくる:整理しきれなかった論点は、デューデリジェンスで見つかり、条件の見直しとして戻ってきます
  • 社内への説明が遅れる:従業員への開示の準備が薄いまま進むと、承継後に影響が残ります

これらを伝えることは、依頼をためらわせることではありません。不利な側を先に開示して、そのうえで選んでいただく。そのほうが、途中で止まる確率がはるかに下がります。期待値の揃え方は「期待値調整の技術」を参照してください。

ご家族との関係|同席をお願いする理由

健康上の事情が背景にある相談では、ご家族の関与が通常より早い段階で必要になります。理由は三つあります。

  • 株式と保証がご家族に及ぶ:譲渡の対価も、個人保証も、相続の場面では家族の問題になります。相続が絡む進め方は「相続が絡む案件の実務」にまとめています
  • 説明の受け手が複数になる:経営者お一人にだけ説明していると、体調の波で情報が止まります
  • 後から知った側の不信は解けない:「なぜ黙っていたのか」は、成約後まで残ります

ただし、ご家族への共有を決めるのは経営者ご本人です。こちらから同席を強く求めることも、ご家族に直接連絡することもしません。お伝えするのは「ご家族が知らないまま進むと、どこで何が起きるか」という事実だけで、判断はお任せします。ご本人以外からの相談の受け方は「相談者が経営者本人でないとき」を併せてお読みください。

本稿は仲介実務の一般的な型を解説するものであり、個別案件における税務・法務・労務の具体的な適用は、税理士・弁護士・社会保険労務士等の専門家にご確認ください。

よくあるご質問

A.並行して進められる作業は組み替えますが、株主の確定、保証や担保の確認、ご家族への共有は省けないとお伝えします。省いた場合にどこで止まるのかを具体的に示したうえで、進め方をご一緒に決めます。
A.ご本人の同意なく健康に関する事情をお伝えすることはありません。日程の希望としてお伝えする範囲にとどめ、どこまで開示するかは必ず事前にご相談して決めます。
A.意思決定の代替が整っていなければ止まります。だからこそ、誰が何を決められるのかを初期に確認し、法的な整え方は弁護士にご確認いただくようお願いしています。
A.反対の理由を伺える場をお願いし、進め方の説明を改めます。ご家族の理解がないまま進めた案件は、最終段階で止まることが多く、急いでいる方にとって最も損失が大きい展開になります。

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プラチナパートナーズでは、初回相談から成約まで一気通貫で担うアドバイザーを募集しています。M&A業界が初めての方も、実務の型から丁寧にお伝えします。
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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら